私はこれまで何万冊も本を読んできました。今も頑張って一日一冊読むようにしています。本ばかり読んできた人生です。 こんなにたくさん読んできたのだから、どこかに「読書のゴール」があるだろうと思ってきましたが、ゴールなんてありません。初めからわかっていたことですね。
日本では、毎日200冊も新刊が発売されます。毎日200冊なんてとても読めません。世の中の全部の本を読むことなんかできないですね。
それにして様々な本を読んできました。手当たり次第に読んできました。忘れても本もたくさんありますが、強烈な印象を持った本もたくさんあります。また、難しくてくじけそうになった本もたくさんあります。
先日、『社会学史』(大澤真幸、講談社現代新書)を読みました。紹介文にはこうあります。
『本物の教養が頭にどんどん染み込んで、ものの見方がすっかり変わる経験をあなたに。
社会学はもちろん、その周辺の学問を理解するためには、どうしても、社会学史全体を知っておく必要があります。
それなのに、なぜか、社会学史の本がほとんどないのが現状です。
だから、この仕事に私は、強い社会的な使命感を持っています』
私もそう思います。本を読むことの「快感」は、まさにこの点だと思いました。というのは、この本での主張であり「社会学史」全体を知ろうというテーマです。これは、著者が言うようにこれまで「社会学」というものは、それぞれ単体・個別・個人・学派で論じられてきて、「社会学」全体を俯瞰する視点がなかったのです。
これは、読書にも言えます。好きな作家やテーマばかり読んでいると、それについては詳しくなるだろうけど、その作家とつながりがあった人物や、当時の時代背景などを他の本で知ることにより、読書ならではの快感を味わい、また、好きな作家のことをもっと詳しく理解できていくのです。
社会学に話を戻すと、この分野はとても視野が広く、広大な大地が広がっています。一言で社会学と言っても、様々なアプローチがあるのです。この本に出てくる人物を見てもそれがわかります。
アリストテレス、パスカル、ホッブズ、ロック、ルソー、スミスという哲学から社会契約という考え方ですね。そして、社会科学という分野が研究されます。その代表は、コントやスペンサーという人です。この辺になると、全集を読んでないと、なかなか全部は読めません。
そして、資本主義や宗教という社会学の側面です。もちろん、マルクスやエンゲルスが代表です。そして、カント、フォイエルバッハ、ヘーゲル、フィヒテという人も出てきます。私が学生の頃に夢中になって読んだ人たちです。
そして、フロイト、デュルケーム、ヴェーバーモ解説されています。
その他に、レヴィ・ストロースやデリダ、フーコーなど日本でも一時期取り上げられた人たちから、私のまったく知らない現代の哲学や社会学者が並びます。
こんな風に歴史を追いながら社会学全体を俯瞰して解説している本は初めてでした。難しい本でした。でも、あらためて自分の理解を測るためにも、素晴らしい読書でした。
そんな風に、一見なんの関係もないと思っていた本や考えが、ある一つのリンクで全てつながる、ということが「読書の世界」ではよくあります。ああなるほど!と膝を打つような理解と快感ですね。自分が理解できそうな本ばかり読んでいると、この難解さを読み終えるときのスリルは味わえません。
私もたくさんのそんな本と出会いました。
これからも一冊ずつ出会いがあるでしょう。
難しいから、長いから、と読む前から構えることなく、どんな本でも、ページを開きたいですね。
難しい本と言えば、日本にも世界にも有名な本がたくさんあります。こんな本にあらためて挑戦するのもいいですね。
長い小説で有名なのが、プルーストの『失われた時を求めて』ですね。ギネスにも登録されています。私も昔読みました。難しくて長かった覚えしかありませんが、それでもあちこちいろいろな場面も覚えています。紅茶とお菓子、嗅覚や味覚が無意識を呼び起こしたり、その無意識に導かれていくような現実の感覚、言葉を探し続けている印象です。
長いと言えば、『戦争と平和』もありますね。とてもいい小説です。難しいと言えば、トマス・ピチョンの『重力の虹』や、埴谷雄高の『死霊』などもあげられます。
難しそうだから、長いから、と最初からあきらめては何も生まれません。ページを開くと「知のきょじん」と会えるのです。彼らの言葉を聞けるのです。数百円で数千円で世界を動かした人たちと会話ができるのです。
読書はやっぱり素晴らしいですね!