1月26日(土)、秋田県横手市に行ってきた。朝7時半の秋田行き新幹線で。大曲で乗り換えて、横手に向かおうとしていた。大曲に近い着いたら、むのたけじさんの息子さん、大策か手配した車で横手に行く。
この日はむのたけじさんの特別展をやっている。そこで、「むのたけじ賞」の入賞発表をする。そして記念講演をする。横手はかつて私も住んでいたことがあるし、懐かしい。ぜひ行ってみたいと思っていた。それで手を挙げて行ったのだ。
「雄物川郷土資料館」に40分ほどで着いた。〈大正・昭和・平成を生きたジャーナリスト むのたけじ展〉が1月26日(土)から3月24日(日)まで行われている。
そして別室で「むのたけじ賞」の発表と記念講演だ。とても立派な会場で、むのさんの本や資料などが沢山あった。歴史的な資料もある。ジャーナリストだから写真も沢山ある。日本の歴史の勉強にもなった。
それから「むのたけじ賞」の方に行く。
まず北条常久さんの記念講演がある。北条さんは「あきた文学資料館名誉館長」だ。むのさんのことは私もよく知っている。とても貴重な話だった。
そのあと、「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」について事務局の武内暁さんから説明があり、受賞者の発表がある。そのあと、「むのたけじ」賞の選考に加わった。実行委員7人のうちの1人になぜ私が選ばれたのか、などについて話す。
私はむのさんのことは子供の時から話を聞いていた。とても凄いジャーナリストで、ただ一人で日本のことを考え、二度と戦争する国にしないようにと闘った。それを父や母からも聞いていた。
私は父の転勤で、秋田県を2、3年ずつ移動した。横手市は幼稚園と小学校1年生までいた。その頃から、むのたけじさんのことは聞いていた。
又、父が言っていたが、「むのさんはよく一緒に家に来て話をした」という話を聞いた。エッ!そんなに親しかったのかと思った。
でも、どんな話をしたのかは知らない。税務署の話なども題材にしていたのだろうかと思った。
その後、対談した。そんなこともあって、今回の「むのたけじ」賞の実行委員に選ばれたのだと思う。
ともかく大変だった。でも、とてもいい企画だし、有意義な賞だと思った。
応募作品は100近く集まり、優秀なものが多かった。
この「むのたけじ展」は、秋田魁新報でも大きく取り上げられていた。「炎が燃えるのも嵐の時」と題して。
〈「たいまつ」は、終戦の日に朝日新聞社を退職したむのさんが、1948年から30年間発行した。経営は苦しかったが、農業や教育など身近な課題を掘り下げ、全国に読者を広げた。
展示会場では「嵐はたいまつを消す。だが炎が燃えるのも嵐の時だ」など、直筆のメッセージ色紙が目を引く。たいまつの紙面には「まだ救われぬ子が多数いる」など弱者の側に立った見出しが並ぶ。むのさんの丸い字で「たいまつ新聞社」と手書きされた看板や、手回しの印刷機、活字もある。
この日は、むのサント退団した経験のあるあきた文学資料館の北条常久名誉館長(80)が、隣接する雄物川コミュニティセンターで「むのたけじの歩み」と題し記念講演した。北条さんは約80人に「むのさんは従軍記者時代、現地の言葉を使い、人々の日常生活から情報をたぐり寄せようとした」と紹介。「たいまつでもその姿勢は同じ。人々の生活に入り、社会を皆で変えていこうと挑戦した。文学や農村医療、政治を志す青年を多く育てた」と話した。〉
北条さんの話はとても興味深くて勉強になりました。又、新聞社を軍部や政府が脅して恐怖心を与えたのではなく、新聞社が「自主規制」して、やったという。全く今と同じだという。
次の日は、早く起きて角館に行った。亡くなった阿部勉氏の故郷だ。そこで御墓参りに行った。