上野公園のはずれ、不忍池のほとりに野外コンサート用の舞台がある。普通の人は気づかない。でも、とてもいい所だ。
私は、学生時代、何度も借りて、使った。だから、とても懐かしかった。
でも、他の人たちは、知らない。行き方も分からないだろう。これじゃ、とても人も集まらないよな。と思って出かけた。4月5日(木)のことだ。午後4時から始めるというので、遅れて5時過ぎに着くように行った。
驚いた。かなり遠い所から、「ここだ!」と分かる。大きな音で音楽を鳴らしている。
あ、そうか。我々が学生の時は音楽がなかったな。「演説」だけだ。だから人もあまり集まらなかったのか」と思った。
上野公園野外音楽堂は音楽のおかげで、分かりやすかった。大きなポスターが貼ってあるし、ノボリも沢山ある。
もう始まっていた。中に入ってみた。会場は1200人収容出来るという。ほぼ満員だ。演説や音楽に合わせて、観客も体を動かしている。そして、大声で叫んでいる。こりゃ、1000人はいるな、と思った。
係りの人が来て、「控え室に案内します」と言う。
もう沢山の人が来ていた。もう出番が終わった人もいる。急ぎの用があって帰った人もいた。佐高信さん、浅野健一さん、チーム・ユリアなどは、もう出番が終わり、帰ってしまっていた。
出番が終わっても、残っている人もいる。黒川敦彦さん、大口昭彦さん、井筒高雄さん、植草一秀さん、増山麗奈さん、伊藤真さんなどだ。
私が着いた時は、もう後半の部が始まっていた。竹信三恵子さんの演説。そして、ジョー無頼[BRAI]さんの歌。その次が私だ。その後は、安倍Noセイダーズの歌、望月衣塑子さん、山城博治さんたちが控えている。
「じゃ、お願いします」と言われて、舞台に上がる。だから、学生時代の思い出から話し始めた。
もう40年前か。いや、50年近く前だ。私は早稲田に通い、乃木坂にある「生長の家学生道場」に住んでいた。生長の家を中心に右派の学生運動をやっていた。よく学び、よく闘っていた。夜中まで学生道場では勉強し、「この日本を救おう!」と言っていた。
「街頭に出て人々に訴えましょう!」と言う人もいる。でもなー、メガホンじゃ、声が届かないし、ハンドマイクを買って街宣するか、と、いろいろ考えた。
当時、大きなアンプを持った右翼の街宣車もいたし、都内を走り回っていた。でも、そんな人たちにマイクを借りてまでやる気はない。そして、学生の純真な心が伝わらない。そう思った。
そんな時、「これだ!」と思ったのが、公共的な「野外ステージ」だった。多分、東京都が管理してるのだろう。だから、結構安い。
「あっ、そうだ。野外コンサート用の舞台があるぞ!」と気がついた。さっそく、交渉して、借りた。
40年以上も前だが、東京には「街宣」用のステージが三つもあった。多分、東京都の管理だからだろう。かなり安かった。
一つは日比谷公園の野音。日比谷野外音楽堂だ。今もあるし、使われている。ただし、ここはキャパが大きいし、大きな労組とか何かでないと借りられない。金も高いだろう。
それと、新橋にもあった。今、駅のある所だ。大きな道を背にして、舞台があった。一般の人は、何気なく、座って聞くことも出来る。ここはよかった。でも今はない。ここは我々も何度か借りて使った。
そして、最後に上野の野外ステージだ。ここはちょっと遠い。分かりづらい。でも千人以上、収容出来るし、一応、屋根もあって雨の日でもやれる。
つまり、この三つの場があって、結構安く借りられた。我々学生が金を出し合って借りられたのだ。
新橋が一番多かった。そして上野だ。「日本を共産革命から守れ!」とか、「憲法を改正し、日本の真の独立を勝ち取れ!」とか叫んでいた。
学生道場は40人近くいるから、半分が参加しても20人だ。1人10分か20分喋るとしても、随分、時間がかかる。それでも頑張ってやった。
大変だったのは、人を集めることだ。喋る人間はいる。でも誰も聞いてないのでは格好悪い。同じ生長の家の仲間に電話したり、ガリ版でチラシを作って撒いたりした。
新橋は少し動員をかけると、いつも一般の人が集まってくる。だから楽だった。
上野の場合はそうはいかない。フリーの客が、ちょっと寄ってみる、ということはない。かなり人集めには苦労した。
ところが、4月5日に行ってみたら、満員だった。千人以上収容出来る会場が満員なのだ。私らの時は、こんなことはなかったなと思った。
それに、さっきも言ったように音楽がある。これはいい。皆の心が高ぶるし、次に演説する人も張り切る。私も昔を思い出しながら、話しました。
昔、ここで演説した時は、あまり、じっくりと会場を見ることはなかった。今見ると、とても立派だ。雨を防ぐ仕組みになってるし、円形で会場に集中出来るようになっている。
それに今、話題の人たちが次々と出るし、観客の反応も違う。「安倍はやめろ!」という歌もある。佐高信、山本太郎、望月衣塑子さん…など名だたる論客が話す。説得力がある。このままではダメだ。政治を変えろ!安倍を変えろ!と皆思う。その熱気が溢れていた。これはいい。と思った。
僕らも、昔の気持ちに戻って、ここをもう一度使ってみたいと思った。
4月5日は単に昔を思い出すだけでなく、これからの運動への新たな展望が生まれた。
そうだ。もう一つ、報告しなくてはならないことがある。
4月5日の上野公園から3日後だ。山梨県の甲府に行ってきた。山梨県立文学館で、竹中労さんを偲ぶ会があったのだ。正式には「竹中英太郎、労さん父子を偲ぶトークの集い」だった。
今、ものを書く人は、必ず竹中労を意識する。労さんのように書けたらいいのに、と思う。佐高信さんもそう言っていた。水道橋博士もそう言っていた。私もそう思う。竹中労を偲び、学ぼうとする人は今でも多い。
その労さんのお父さんが英太郎さんだ。この人は有名な画家だった。江戸川乱歩などの挿絵を描いて有名になった人だ。
アーチストの父の影響もあったのだろう。労さんの活躍には、そんなことを知る人たちが集まって、この日の集会になった。会場は満員だった。
第1部は大工哲弘さんだ。蛇皮線で沖縄、そして竹中さんの思い出を語る。
第2部は竹中労さんを知る人たちが結集して、喋る。
私はただそれを聞きに行っただけなのに、急遽、出席させられた。樹木希林さん、水道橋博士、漫画家の喜国雅彦さん、評論家の末永昭二さんなど、すごい人たちだ。皆、竹中労さんのことは何でも知ってる、という感じだ。とても刺激的だったし、私は勉強になった。
樹木希林さんは若い時に、竹中労と喧嘩したことがあるというし、その時の話を披露してくれた。
水道橋博士は、竹中の本を10冊以上も持ってきて、机の上に重ねて、説明する。
今、「たけし軍団」の独立、分裂問題で忙しいのに、よく来てくれたもんだと思う。たけし軍団の話も交えながら、労さんの話をする。これも説得力があった。
4月5日と8日は、ともかく大変だった。私はとてつもなく大きな教訓を得たし、知識を得た。本当に、出席してよかったと思う。
そのあと、二次会に出て、樹木希林さん、博士などとも随分と話をした。
そして9時過ぎの最終の電車で東京に帰ってきた。
⑬4月9日(月)一水会フォーラム。午後6時から、ホテルサンルート高田馬場、3階大会議室で。講師は佐々木良昭さん(経団連ビジティングアナリスト)。「最新の中東情勢を考える」。とても詳しいし、勉強になりました。
⑯私も「活動報告」をしてくれ、と言われて、やりました。木村氏の話は別に「木村ゼミ」として独立してやった方がいい。「活動報告」は山口君や一水会事務局の伊藤君、私などでやりますから、と言いました。さて、来月はどうなるのでしょうか。
⑰4月7日(土)。渋谷アップリンクで、韓国映画「沈黙」の特別試写会を観ました。在日の活動家の人たちに誘われたのです。従軍慰安婦の映画でした。私は、このての映画は、ほとんど観てます。トークなどは出て喋るので。でも、この映画が一番、リアルだし、説得力があると思いました。終わってから、朴監督とそのことを話し合いました。もうすぐ東中野のポレポレで上映されるようです。ぜひ観て下さい。