カメラマンの福田文昭さんとは最近よく会っている。日本を代表する「世界的カメラマン」だ。
あの有名な田中角栄の法廷写真を撮った人だ。すごいスクープだ。他にも数々のスクープを撮っている。
これだけのカメラマンなのに、本人はいたって謙虚だ。そして、ストイックに暮らしている。あれだけの名を挙げた人なら、いくらでもやりようがあると思うが、「俺が俺が」と出ていかない。
沢山の助手を使って大きく仕事をしてもいいはずなのに、やらない。たった一人で、地道に仕事をしている。案内も全て自分が手書きで書いて送っている。
この人からは沢山のことを学んでいる。写真の話を沢山聞いてるし、又、いろんな人々を紹介してもらっている。世界が広がった。
写真展も、秋田県をはじめ全国で見てきた。東京大空襲の現場を歩く会にも行ったし、その慰霊祭にも出た。
又、3月18日は、「アリの街に6年間暮らして」という外側志津子さんの話を聞きに行ったのだ。
昔、終戦直後、浅草に「アリの街」と言われるドヤ街があった。そこに「アリの街のマリア」と言われる北原怜子さんが住みついて、献身的に活動をしていた。その人のことは映画にもなった。
その北原さんと共に生活した外側さんが講演するという。その話を福田さんから聞いて、私は即座に、「聞きに行きます!」と言った。
「実は北原さんの映画を観たのです」と昔を思い出して話しました。
私が小学校の時に、学校で皆を連れて行ってくれたのです。映画館に。そこで、「アリの街のマリア」という映画を観たのです。実に感動的な映画でした。
「アリの街」」と言われたバタ屋さんの集まる街で、北原さんは献身的に働くのです。
涙を流しながら小学生の私たちはこの映画を観ました。感動しました。日本にもこんな献身的な人がいたのか、と驚きました。ナイチンゲールのような人が日本にもいたのです。
もしかしたら、私が「日本への愛」を感じ、「愛国心」を感じた初めてのキッカケかもしれません。
3月18日(日)午後1時30分から、東上野区民会館で、この講演は行われました。
講演のテーマは「アリの街に6年間暮らして=北原怜子と共に」。話すのは外側志津子さん(とがわ・しずこ)さん。今年88才だそうですが、とてもはっきりと話します。
当日は、膨大な資料があり、写真もありました。又、膨大な本も売られておりました。
私は、懐かしくて、随分と買いました。その資料から引用しながら説明しますが…。
昭和25年。現在の台東区隅田公園の中に、戦火のために家を失った人々が廃品回収を生業として働き、生活する場として「アリの街」が誕生し、10年後、深川8号埋立地に移転するまで存続していた。
この「アリの街」の様子や、全国を歩き回り戦災孤児を救済し続けたポーランド人の修道士ゼノ・ゼブロフスキーさん、「アリの街のマリア」と呼ばれてこの街で暮らし、献身の活動を続けた北原怜子さんのことなどについて、その事実を風化しないように資料を集め、写真資料展を開催してきたのです。
かつては、映画が出来、全国で上映されましたが、今年は「アリの街のマリアとゼノ修道士」という芝居が出来ました。
これは素晴らしいですね。私は観に行くつもりです。6月に浅草の「浅草九劇」で公開されるそうです。
私は小学校の時に、学校で連れて行かれて、その「アリの街のマリア」の映画を観たのですが、これ以上の知識はありません。ゼノ修道士と北原さんとの献身的な活動だけが心に残ってました。
この映画を観てから60年以上も経った今日、再び、「アリの街のマリア」の名前を聞くとは思いませんでした。
3月15日に講演した外側志津子さんは、女学生の時に洗礼を受け、ゼノ修道士、北原さんの活躍を知り、「アリの街」に飛び込んだのです。そして北原さんと6年間、アリの街で暮らしたのです。
そんな人が今もいたのかと、嬉しかったです。とてもいい話でした。
講演が終わった時に私は、外側さんに駆け寄って、言いました。「私は小学校の時に『アリの街のマリア』の映画を観たのです」と。「学校で皆を連れて行ってくれたのです」と。
外側さんも驚いてました。「えっ、学校で皆を連れて行ったの? いい学校ですね。どこの学校?」「秋田県湯沢市の小学校です」と私は言いました。
考えてみたら、今なら難しいかもしれません。「偏向した映画を観せた」とか「反日的な映画を観せた」とか、いくらでもケチは付けられます。
当時は、社会正義に燃えた先生が多かったし、個人の先生だけでなく、学校全体として、「これはいい映画だ。皆に観せよう」となったのでしょう。
あの映画に出会えて、本当によかったと思います。
そうだ。他にも、いくつか学校で観せられた映画があったよ。
「名寄岩(なよろいわ)物語」というのもあった。北海道の名寄(なよろ)出身の相撲取りだが、怪我が多く、敗けてばかりいる。でも、必死になって頑張って戦ってゆく。という物語だ。
これも実話だ。これも感動して観た。この2本かな、学校で皆を連れて行って観せられたのは。
あとは父親が連れて行ってくれた映画だ。「クォ・ヴァディス(主よいずこへ)」という映画があった。ローマ時代に主に弾圧されながら、必死に生きるキリスト教徒の物語だ。
全部いい映画だった。当時、湯沢市は人口3万でやっと市になったとこだった。
でも映画館は4つもあった。今は大きくなったが、不思議なことに映画館はゼロだ。かつて小さな町に4つもあり、小学生もゾロゾロと観に連れて行かれたのに。今はゼロだ。文化がなくなっている。
湯沢小学校は小学4年から6年までいた。その前は秋田県で小学3年、4年だ。そこで、親類のおじさんに連れて行かれたのが、三島由紀夫の「夏子の冒険」だった。
勿論、三島の名前は知らない。ただ、夏子という女性が活躍する映画だと言われて観たのだ。小学校で観た映画は強烈に覚えている。
3月18日の外側さんの講演会の時には、いくつかの本を買った。又、資料も買った。
『ゼノさんと北原怜子さんとアリの街の写真資料展』というパンフレットを買ったら、昔観た映画のことも出ていた。
〈ゼノ・ゼブロフスキー修道士は、1891年にポーランドで生まれ、1930年(昭和5年)に布教のためコルベ神父らと共に来日。自身、長崎で被爆しながらも戦後は戦災孤児らの救済活動に尽くされた。「ゼノ死ヌヒマナイ」が口癖だった〉
「アリの街」については、こう書かれている。
〈戦争で焼け野原となった帝都東京には、たくさんの罹災者が溢れていました。やがて、助け合って共に生活する家族のような一団が出来ました。その一団は、隅田川沿いの瓦礫を整理して共同生活を始めるようになったのです。1950年(昭和25年)、「蟻の会」と自ら名乗った生活共同体が、台東区聖天町63番地(現在の隅田公園)に出来たのです。そこは通称「アリの街」と呼ばれました。同園を植垣で囲ったその一画は、廃品回収業を営み、事業拠点であると同時に生活の場でもあり、罹災者コンミューンだった。初めの頃は無秩序な荒み様でしたが、皆が助け合って共同生活できる事業体を興し、やがて貧しい人たちも安心して暮らせる新天地となっていったのです〉
では北原さんだ。
〈北原怜子さんは1929年、大学教授の二女として東京府豊多摩郡(現東京都杉並区)に生まれた。1949年にメルセス会修道院にて受洗。洗礼名はエリザベト、聖徒名はマリア。1950年、ゼノさんとの出会いをきっかけに、「アリの街」に暮らしながら食事や子供らへの奉仕活動に献身し、「アリの街のマリア」と呼ばれた。2015年1月23日、ローマ法王庁列聖省により「尊者」と認められた〉
北原さんは早くして亡くなっている。
〈北原怜子さんは1958年1月23日腎臓病のため、28才の若さで亡くなりました。墓所は多磨霊園にある〉
又、この日、3月18日、外側さんの講演の後にライターの石飛仁さんが挨拶した。
この人についてはパンフレットにこう書かれている。
〈石飛仁氏は丹念な取材を経て著書『風の使者ゼノ神父』を上梓した。往年のゼノさんを知る人たちからの手紙による情報提供は、当時でも大変貴重な資料であった。ゼノさんの人柄を伝える多くのエピソードが全国から寄せられた〉
この石飛さんの本も買ったので、読んでいる。
石飛さんは挨拶し、自分の席に帰る時に、私を見つけて、「あっ、鈴木さん久しぶり!」と言って抱きついてきた。
アレッ、私と会ったことがあったのかな。何でも平岡正明さんとかいろんなライターと会っている。北原さんだけでなく、過激な人たちとの繋がりもある。
どうも、その人々との取材の中で私も出会ったようだ。いろんな人に会うもんだ。