2018/02/26 鈴木邦男

「学生道場」の青春を思い出した

①吹雪いていた、金沢は

金沢で。岩井さん、鈴木、飛松さん
金沢で。岩井さん、鈴木、飛松さん
鈴木、布清信君、飛松五男さん
鈴木、布清信君、飛松五男さん
まず私が講演 まず私が講演

金沢は寒かった。2月17日(土)、金沢で講演会があった。そして飛松さんとの対談がある。皆、楽しみにしている。

「でも、雪は大丈夫なのか」という問い合わせもあった。今年は例年になく、大雪が降っている。それに石川県は、国道にトラックが百台近くも連なって、止まっている。中には病気で倒れた人もいた。

でも、新幹線は動いているだろう。ということで、岩井さんも「やりましょう!」と言う。

行くのは楽だった。寅次郎君と一緒に行った。長い間入院し、やっと退院したばかりだ。それなのに金沢まで行くという。偉い。

飛松さん、岩井さんたちも大歓迎してくれた。「よく生きて帰ってきたてくれた!」と。戦場からの帰還兵のようだ。

飛松さんとは久しぶりだ。そして、最近の「安全」と「危険」についての問題もじっくりと聞いてみたいと思った。

〈安全〉は必要だ。でも、ちょっと考えが違う人がいたら、ちょっと違うことを言う人がいたら、「とにかく110番」。これはいいことなのか。

又、日本の安全を守るために、軍備を増強し、中国、韓国、北朝鮮の脅威に備えるという。そのため、憲法改正もやる。そういう方向だ。この方向に「日本人なら」賛成するはずだ。という思い込みがある。

次に飛松さんと対談 次に飛松さんと対談

それに対し、少しでも疑問を持つようならば、それは「非国民!」「反日分子!」と言われる。

だったら、政府の絶叫などは聞かずにいて、支持しておいた方がいい。そう考えるのだろう。

金沢では、いろんな人が来てくれた。飛松さんともう一人、心待ちにしていたのは布(ぬの)君だ。七尾から来てくれた。車で1時間くらいだという。車を飛ばして来てくれた。

飛松さんとの対談のあと、布君との対談にして、そこで喋るか、あるいはと思ったが、時間が押していてダメだった。もう終わる時刻になってしまった。

じゃ、別のところでやってみよう。40年以上前の「学生道場」の体験が今の我々を支えている、と思う。

終わって、布君たちと 終わって、布君たちと

40人近くの人間が全国から集まり、寮生活をする。共に学び、祈り、行動した。

時は全共闘運動が強い時でもあり、左からの恐怖感は強かった。「ただ祈っているだけではダメだ」と言われた。

普通の宗教ならば、個人の体や心のことを心配していたらいい。でも今は、この日本が「危篤」なのだ、と言う。

だから、「学生も立ち上がれ!」とハッパをかけられた。だから、宗教人なのに闘ったのだ。まるで「僧兵」のようだな、と思った。「いや、十字軍かな」。

ともかく信仰を持った兵士といった状況だった。

②乃木坂は不便だった

宿で 宿で

よく闘い、よく学んだ。全然遊びはなかった。女の子と遊ぶこともなかった。不思議な4年間だ。

普通、若い男が40人もいたら、必ず堕落する。

「一緒に勉強しようか」なんて話は通らない。「酒飲もうか」「遊びに行こうか」という話はすぐまとまる。下に落ちやすいのだ。

学生道場の先生や先輩もそれを心配していた。よく注意していた。

しかし、皆、真面目だった。酒なんか飲みに行く人はいない。男女交際も禁止だし、女と会って遊んでる奴もいなかった。

これも今となっては不思議だ。布君だって異性の友達なんかいなかった。

そして道場では、人が集まると、読書の話や、勉強の話ばっかりだった。それが楽しかったのだ。

今は私もけっこう読書してる方だと思うが、そのクセは、学生道場の時に出来たのだと思う。あそこにいなかったら、こんなに本を読むことはなかったと思う。

その辺のことを金沢で布君に聞いてみた。

飛松さんのサインを撮ってます 飛松さんのサインを撮ってます

「鈴木さんは本を読むのが早かった。道場でお祈りの時間が終わって朝ご飯の前に、一冊読んでいました」。本当かよ。そんなに読んでたのかな。

「それに、ものすごく大学の成績がよかった」と言う。成績表を布君に見せたという。ほとんどが優だったという。

これも私には記憶がない。わざわざ他人に見せびらかしてたんでしょうか。信じられない思いだ。

そうか。「陸の孤島」にいたから、本を読むとか、勉強するしかなかったのか。そうも思う。

「陸の孤島」と言ったけど、今はものすごく交通の便はいいし、東京の中心地だ。

でも当時は、不便で仕方がなかった。赤坂・乃木坂に学生道場はあった。でも地下鉄はない。乃木坂の地下鉄が出来たのはかなりあとだ。

朝食会場で 朝食会場で

乃木坂、六本木は地下鉄がないし、JRもない。あの辺は高級な家が多いから、銭湯はあまりない。けっこう遠かった。冬なら凍えるし、夏なら汗だくになる。

「こんなへんぴな所はやだな」と言い合っていた。大学に行くのでも、青山一丁目まで歩いて、そこからトロリーバス。四谷三丁目まで行き、そこで早稲田行きのバスに乗る。それしかなかった。

又、個人用のテレビは禁止だし、ラジオもない。ただ、本を読むしかない。

③無謀な読書をしていた

兼六園も大雪です
兼六園も大雪です
歩くのも大変です
歩くのも大変です
泉鏡花記念館で
泉鏡花記念館で
記念館の入口まで雪が
記念館の入口まで雪が
金沢駅で 金沢駅で

「近世日本国民史」という全100巻ほどの本がある。徳富蘇峰が書いたものだ。それを全巻買って読んでいる人もいた。今だって私も読めない。

マルクス・レーニンの全集を買っていた先輩もいた。敵をやっつけるためには、よく知らなくてはダメだと言っていた。これだって今でも私なんかが読めない。そんな無謀な読書をしてる人がいた。

又、神について、人生について…などと夜遅くまで話し合っていた。そんな真面目な学生は、今、いないよ。

それに、右派的な月刊誌や週刊誌を読んでる人もいない。早朝からお祈りだ。眠くて仕方ない。でもお祈りと朝食の間に本を読んだり、書き物をしたりしていた。

それに、皆、相部屋だ。一人一人の部屋があって勉強してるのではない。9畳に3人、上級生になると6畳に2人だ。全体の自治会があって、その委員長になると、一人で一部屋だ。

しかし、よく勉強した。遊びたい気持ちも起こらなかった。不思議だ。時代が危機的だったからか。

大雪でした 大雪でした

又、勉強だけでなく、外に向かっても訴えてきたし、闘っていた。

当時は、新橋に野外ステージがあった。上野にもあった。そこで、我々は借りて、時局講演会をやった。

今なら、テレビやネットで専門家の話を聞いてみようと思う。

でも、あの当時は、そんなチャンスはないから聞いていたのだろう。

右翼の街頭演説だって、かなり開いてたし、愛国党の赤尾敏さんの演説も、よく人が集まって聞いていた。そんな時代だったと思う。

世の中に向かって訴えてる人の話は、ともかく聞いてみよう、という気があった。

今は全くないね。ネットで「自分の意見」を言いたいのだ。大した「意見」でもないのに。そんな言論ばかりが溢れている。だから、まともな言論が目立たない。

④卑怯な闘いはしなかった

記念館の中で
記念館の中で
これも中です
これも中です
「ちょうちん屋」さんが
「ちょうちん屋」さんが
「めん屋」さんが
「めん屋」さんが
町は吹雪でした
町は吹雪でした
屋根からよく落ちてきます
屋根からよく落ちてきます

左翼の人たちとも大学ではよく闘った。でも卑怯な闘いはしなかった。堂々と論争し、肉体的に闘った。数が少ないから、ほとんどが負けていたが、でも堂々と闘った。

そんな「敵」と、今頃になって再会することがある。「よく殴り合いましたよね」と言いながら、懐かしくて酒を飲んでいる。卑怯なことをしなかったからだろう。それだけが誇りだ。

布君ともそんな話をした。当時の右派では、左翼をやっつけるために警察に協力するべきだと主張する人もいた。私らは反対だった。

密かに左翼の顔写真をカメラで撮って、警察に持って行く右の人もいた。又、左翼のビラを集めて警察に持って行った人もいた。

本人は「愛国心からやったのだ」と言うが、私は信じない。それは卑怯だ。許せない。同じ大学の学生を敵に売ることだ。

「金箔入りコーヒー」です 「金箔入りコーヒー」です

学校側だって、けっこう厳しかったが、警察に知らせたりすることには慎重だったし、考えに考えた末に機動隊の導入だって決断していた。

今は、何も考えずに、警察に任せている。すぐに警察を呼ぶし、教え子を警察に渡している。これでは教育者としての意味がない。

あの当時、じっくりと考えていた。そして教え子を警察に渡していいかどうか、考えに考えていた。それは教育者としての最後の義務だったと思う。

だから、考えが違っても、学生は教授たちを信頼していた。全共闘の人間も三島由紀夫や林健太郎、村松剛などの硬派な右派学者を、(口先では批判しても)内心は尊敬していた。

『未解決事件100の聖域』 『未解決事件100の聖域』

三島が自決した翌日、東大では東大全共闘の大きな立て看が出た。「追悼・三島由紀夫」と。東大全共闘との対決だって、そう考えると、お互いに敬意が溢れている。

あの頃の講演・対談は、TBSが全て公開するそうだ。DVDにして売るのかもしれない。これはいいことだと思う。

三島事件から50年まであと2年。その時は、ドッと出るだろう。又、三島が書いた作品で映画になったものもドッと出る。又、見てみたい。

学生道場では、どんな勉強をしていたのか。どんな本を読んでいたのか。私はすっかり忘れてしまったが、布君は記憶力がいいから、覚えている。

早いとこ対談をやって聞いてみたい。

トップは私でした
トップは私でした

【だいありー】

千葉刑務所に。2/19(月)
千葉刑務所に。2/19(月)
後ろの赤レンガが刑務所
後ろの赤レンガが刑務所
原田正治さんと。2/19(月) 原田正治さんと。2/19(月)
  1. 2月19日(月)寅次郎君と12時に東中野で待ち合わせて、千葉に行く。
     1時間後、千葉に着く。椎野礼仁さんと合流し、バスに乗って、千葉刑務所に行く。
     筋弛緩剤の点滴を使って患者を殺したという容疑で逮捕され、千葉刑にいる守大助さんと面会する。
     寅次郎君とは昔からの知り合い。私と礼仁さんは初対面。40近いが、若々しい。20代の青年のようだった。
     冤罪の可能性が強いし、再審も準備し、進んでいる。
     しかし、千葉は遠い。でも、千葉刑は赤レンガの古い建物で、それだけ見ると、きれいだ。
ヤン・ヨンヒさんと ヤン・ヨンヒさんと
  1. 2月20日(火)高田馬場の自由国民社に行く。映画監督のヤン・ヨンヒさんと対談。
     3月に出る本『朝鮮大学校物語』について。そして映画や、日朝関係、民族教育などについて語る。
     とてもいい小説で、ここに全てが書かれている。人間はどう生きたらいいのか。他国との付き合いは、人間は国家なしに生きられるのか…などなど。多くの問題を考えさせられた。
  2. 2月21日(水)午前中、原稿。
     午後、取材。
     5時半に迎えの車が来る。赤坂のキャピトル東急へ。経営塾の勉強会で呼ばれて話をする。
経営塾で講演しました。2/21(水) 経営塾で講演しました。2/21(水)

テーマは〈『天皇の味方です』を書いて〉。会社の経営者、弁護士、大学教授を前にして話す。ホリプロの社長も来ていた。

すごい人たちの前で私ごときが喋っていいものだろうか。1時間話し、そのあと、質疑応答。

終わって、又、車で送ってもらった。申し訳ない。

  1. 2月22日(木)午前中、原稿。
     午後から学校。自習室で勉強。
     3時、「現代文要約」。
     5時、「読書ゼミ」。
演説する塩村あやかさん 演説する塩村あやかさん

終わって、又、車で送ってもらった。申し訳ない。

亡くなった西部邁さんの最後の本『ファシスタたらんとした者』(中央公論社)を読む。奥さんが亡くなったあと、〈まるで半病人〉のようになった西部氏。その西部氏を見つめ、冷静に観察するもう一人の西部氏がいる。こんな形で最後の作品を残したのか。驚きだった。

終わって、日比谷へ。塩村あやかさんの政治パーティに出る。佐高さんなど多くの人が出ていた。

  1. 2月23日(金)電話が全然鳴らない、と思ってたら、止まっていた。料金を払わないからだ。参った。あわててお金を借りて払いに行った。貧乏はつらい。
     午前中、原稿。
     午後2時、打ち合わせ。
     5時、渋谷のロフト9。映画『息衝く』を観て、話し合う。宮台真司さん。杉田俊介さんなどと話す。木村文洋さん(監督)も。政治や宗教についてじっくりと話し合う。
塩村さんと 塩村さんと
  1. 2月24日(土)午前11時13分発の新幹線で名古屋へ。名古屋から車で東海中学へ。2時から私の講演会。
     大勢の生徒が集まっていた。私は緊張した。講演のテーマは、「奮い立て日本! 若者よ、夢を見ろ!そこから改新は始まるんだ!」。喋ってる自分こそしっかりしなくっちゃ、と思った。
     「奮い立て!鈴木」と自分で自分を叱咤しながら話しました。
  2. 2月25日(日)朝、長野新幹線で上田へ。平田君が迎えに来ていた。「信濃デッサン館」に行く。
     大正5年、22才で逝った詩人画家・村山槐多を偲ぶ集い。「槐多。絶叫コンサート」。
     福島泰樹さん(歌人)。永畑雅人さん(ピアノ)。そのあと、公開対談。「死について」。
     「信濃デッサン館」代表の窪島誠一郎さんと、古市憲寿さん(社会学者)。とてもよかったです。
私も挨拶しました
私も挨拶しました

【写真説明】

金沢で。岩井さん、鈴木、飛松さん

①2月17日(土)。金沢で講演会と対談がありました。地元の岩井正和さんが主催で、はじめに私が憲法について講演。それから飛松五男さんと対談。憲法、日本の安全、警察などについて話し、その後、質疑応答。写真は左が司会の岩井さん。鈴木。飛松五男さんです。

鈴木、布清信君、飛松五男さん

②石川県七尾市に住んでる布(ぬの)清信君も来てくれました(中)。「生長の家学生道場」で一緒に修行した仲間です。私より2才下で、国学院大学でした。とても勉強家でした。右は飛松さん。

まず私が講演

③はじめに私が話しました。「憲法」について。

次に飛松さんと対談

④次に飛松さんと対談しました。

終わって、布君たちと

⑤講演、対談が終わって。右は布清信君。

宿で

⑥懇親会のあと、宿舎へ。五人部屋でした。寝る前に岩井さん、寅ちゃんたちがテレビを見ています。

飛松さんのサインを撮ってます

⑦学校からサインを頼まれて、飛松さんが「真実一路」と書きました。それを撮ろうと、カメラが集まって来ました。

朝食会場で

⑧次の日の朝食会場です。飛松さんと寅次郎君です。寅次郎君は大怪我をして病院に入院し、退院したばかりなのに会場に来てくれました。ありがたいです。

金沢駅で

⑨金沢は大雪でした。金沢駅の巨大なヤカンの前で。オブジェでしょう。

大雪でした

⑩外を歩くのは大変でした。吹雪いてますし、よく転びました。

兼六園も大雪です

⑪兼六園にも行ってみました。大雪で人はいないし、大変でした。

歩くのも大変です

⑫歩くのも大変です。転ぶと雪に埋まり、助け出すのも大変です。

泉鏡花記念館で

⑬泉鏡花記念館に行きました。

記念館の入口まで雪が

⑭看板から入り口までは、こんな雪道です。雪が両側に積まれてます。

記念館の中で

⑮中です。芥川竜之介の書が。〈泉鏡花先生は、古今に独歩する文宗なり〉。「文宗」か。いい言葉ですね。

これも中です

⑯これも中にありました。

「ちょうちん屋」さんが

⑰金沢は古都で、文化財、文化的な建物、家が多くあります。「ちょうちん屋」なんて他ではないですね。

「めん屋」さんが

⑱「めん屋」さんがありました。東京でもよくあります。〈麺や〉でラーメン、ソバを置いてるのでしょう。ところが金沢では違うんです。食べ物ではなくて、芝居や能などで使う「お面」を作ってるんですね。

屋根からよく落ちてきます

⑲ボーッとして歩いてると突然、屋根から雪が落ちてきて、埋まってしまいます。だから「落雪注意」です。

「金箔入りコーヒー」です

⑳金箔入りコーヒーです。岩井さんが飲んでました。私は、金箔入りソフトクリームを食べました。おいしかったです。

町は吹雪でした

㉑町は大吹雪でした。フードを被り、私も完全武装です。

千葉刑務所に。2/19(月)

㉒2月19日(月)は、千葉刑務所に行きました。守大助さんの面会です。寅次郎君と。

後ろの赤レンガが刑務所

㉓二人の間から見えるのが千葉刑務所です。赤レンガで、建物としてはきれいですし、立派です。

ヤン・ヨンヒさんと

㉔映画監督のヤン・ヨンヒさんと対談しました。来月、『朝鮮大学校物語』という本が出ます。素晴らしい本です。民族やプライド、対立について話しました。

原田正治さんと。2/19(月)

㉕19日は原田正治さんとアーチャリーを会わせ、私が司会する予定でした。すっかり忘れていて、千葉から急いで行きましたが、3時間遅れで着きました。原田さんと。
原田さんは『弟を殺した彼と、僕』(ポプラ社)という本を書いてます。弟を殺され、犯人を許さないと思ったのですが、面会するうちに、変わります。死刑にしないで中で反省してほしいと思います。死刑制度にも反対です。〈死刑〉について考えさせる本です。アーチャリーはオウムの麻原の三女です。その対談状況を映画で撮りました。

演説する塩村あやかさん

㉖2月22日(木)。塩村あやかさんを励ます会があって出席しました。元都議です。衆院選では広島から出馬し、落選しました。「今度も、広島から衆院選に出ます!」と覚悟を語っていました。

塩村さんと

㉗塩村さんと。

私も挨拶しました

㉘私も挨拶しました。7年ほど前、文化放送の「夕やけ寺ちゃん活動中」で、週1回、一緒に出てました。彼女は脚本も書いてました。そこで、政治家、小説家など沢山の人に会い、話しました。彼女は、そこで政治について勉強し、このままではダメだ、と思い政治家になりました。

経営塾で講演しました。2/21(水)

㉙前の日、2月21日(水)ですね。経営塾の幹部勉強会に呼ばれて話をしました。ホリプロ、グリーンキャップなど大企業の社長さん、弁護士、大学教授などを前に話したのです。緊張しました。

『未解決事件100の聖域』

㉚コンビニに行ったら、こんなすごい本が出てました。一体これは何だ!、と思いました。『日本の未解決事件100の聖域』だって。

トップは私でした

㉛「100の聖域」のトップは赤報隊事件で、私が書いてました。そうか。この前やったNHKの「未解決事件 赤報隊」でも、9人に絞られた「容疑者」のトップとしてインタビューされてました。この雑誌でも私はトップなんですね。

【お知らせ】

  1. 3月4日(日)午後2時より。連合会館。塩見孝也さんのお別れ会。