金沢は寒かった。2月17日(土)、金沢で講演会があった。そして飛松さんとの対談がある。皆、楽しみにしている。
「でも、雪は大丈夫なのか」という問い合わせもあった。今年は例年になく、大雪が降っている。それに石川県は、国道にトラックが百台近くも連なって、止まっている。中には病気で倒れた人もいた。
でも、新幹線は動いているだろう。ということで、岩井さんも「やりましょう!」と言う。
行くのは楽だった。寅次郎君と一緒に行った。長い間入院し、やっと退院したばかりだ。それなのに金沢まで行くという。偉い。
飛松さん、岩井さんたちも大歓迎してくれた。「よく生きて帰ってきたてくれた!」と。戦場からの帰還兵のようだ。
飛松さんとは久しぶりだ。そして、最近の「安全」と「危険」についての問題もじっくりと聞いてみたいと思った。
〈安全〉は必要だ。でも、ちょっと考えが違う人がいたら、ちょっと違うことを言う人がいたら、「とにかく110番」。これはいいことなのか。
又、日本の安全を守るために、軍備を増強し、中国、韓国、北朝鮮の脅威に備えるという。そのため、憲法改正もやる。そういう方向だ。この方向に「日本人なら」賛成するはずだ。という思い込みがある。
それに対し、少しでも疑問を持つようならば、それは「非国民!」「反日分子!」と言われる。
だったら、政府の絶叫などは聞かずにいて、支持しておいた方がいい。そう考えるのだろう。
金沢では、いろんな人が来てくれた。飛松さんともう一人、心待ちにしていたのは布(ぬの)君だ。七尾から来てくれた。車で1時間くらいだという。車を飛ばして来てくれた。
飛松さんとの対談のあと、布君との対談にして、そこで喋るか、あるいはと思ったが、時間が押していてダメだった。もう終わる時刻になってしまった。
じゃ、別のところでやってみよう。40年以上前の「学生道場」の体験が今の我々を支えている、と思う。
40人近くの人間が全国から集まり、寮生活をする。共に学び、祈り、行動した。
時は全共闘運動が強い時でもあり、左からの恐怖感は強かった。「ただ祈っているだけではダメだ」と言われた。
普通の宗教ならば、個人の体や心のことを心配していたらいい。でも今は、この日本が「危篤」なのだ、と言う。
だから、「学生も立ち上がれ!」とハッパをかけられた。だから、宗教人なのに闘ったのだ。まるで「僧兵」のようだな、と思った。「いや、十字軍かな」。
ともかく信仰を持った兵士といった状況だった。
よく闘い、よく学んだ。全然遊びはなかった。女の子と遊ぶこともなかった。不思議な4年間だ。
普通、若い男が40人もいたら、必ず堕落する。
「一緒に勉強しようか」なんて話は通らない。「酒飲もうか」「遊びに行こうか」という話はすぐまとまる。下に落ちやすいのだ。
学生道場の先生や先輩もそれを心配していた。よく注意していた。
しかし、皆、真面目だった。酒なんか飲みに行く人はいない。男女交際も禁止だし、女と会って遊んでる奴もいなかった。
これも今となっては不思議だ。布君だって異性の友達なんかいなかった。
そして道場では、人が集まると、読書の話や、勉強の話ばっかりだった。それが楽しかったのだ。
今は私もけっこう読書してる方だと思うが、そのクセは、学生道場の時に出来たのだと思う。あそこにいなかったら、こんなに本を読むことはなかったと思う。
その辺のことを金沢で布君に聞いてみた。
「鈴木さんは本を読むのが早かった。道場でお祈りの時間が終わって朝ご飯の前に、一冊読んでいました」。本当かよ。そんなに読んでたのかな。
「それに、ものすごく大学の成績がよかった」と言う。成績表を布君に見せたという。ほとんどが優だったという。
これも私には記憶がない。わざわざ他人に見せびらかしてたんでしょうか。信じられない思いだ。
そうか。「陸の孤島」にいたから、本を読むとか、勉強するしかなかったのか。そうも思う。
「陸の孤島」と言ったけど、今はものすごく交通の便はいいし、東京の中心地だ。
でも当時は、不便で仕方がなかった。赤坂・乃木坂に学生道場はあった。でも地下鉄はない。乃木坂の地下鉄が出来たのはかなりあとだ。
乃木坂、六本木は地下鉄がないし、JRもない。あの辺は高級な家が多いから、銭湯はあまりない。けっこう遠かった。冬なら凍えるし、夏なら汗だくになる。
「こんなへんぴな所はやだな」と言い合っていた。大学に行くのでも、青山一丁目まで歩いて、そこからトロリーバス。四谷三丁目まで行き、そこで早稲田行きのバスに乗る。それしかなかった。
又、個人用のテレビは禁止だし、ラジオもない。ただ、本を読むしかない。
「近世日本国民史」という全100巻ほどの本がある。徳富蘇峰が書いたものだ。それを全巻買って読んでいる人もいた。今だって私も読めない。
マルクス・レーニンの全集を買っていた先輩もいた。敵をやっつけるためには、よく知らなくてはダメだと言っていた。これだって今でも私なんかが読めない。そんな無謀な読書をしてる人がいた。
又、神について、人生について…などと夜遅くまで話し合っていた。そんな真面目な学生は、今、いないよ。
それに、右派的な月刊誌や週刊誌を読んでる人もいない。早朝からお祈りだ。眠くて仕方ない。でもお祈りと朝食の間に本を読んだり、書き物をしたりしていた。
それに、皆、相部屋だ。一人一人の部屋があって勉強してるのではない。9畳に3人、上級生になると6畳に2人だ。全体の自治会があって、その委員長になると、一人で一部屋だ。
しかし、よく勉強した。遊びたい気持ちも起こらなかった。不思議だ。時代が危機的だったからか。
又、勉強だけでなく、外に向かっても訴えてきたし、闘っていた。
当時は、新橋に野外ステージがあった。上野にもあった。そこで、我々は借りて、時局講演会をやった。
今なら、テレビやネットで専門家の話を聞いてみようと思う。
でも、あの当時は、そんなチャンスはないから聞いていたのだろう。
右翼の街頭演説だって、かなり開いてたし、愛国党の赤尾敏さんの演説も、よく人が集まって聞いていた。そんな時代だったと思う。
世の中に向かって訴えてる人の話は、ともかく聞いてみよう、という気があった。
今は全くないね。ネットで「自分の意見」を言いたいのだ。大した「意見」でもないのに。そんな言論ばかりが溢れている。だから、まともな言論が目立たない。
左翼の人たちとも大学ではよく闘った。でも卑怯な闘いはしなかった。堂々と論争し、肉体的に闘った。数が少ないから、ほとんどが負けていたが、でも堂々と闘った。
そんな「敵」と、今頃になって再会することがある。「よく殴り合いましたよね」と言いながら、懐かしくて酒を飲んでいる。卑怯なことをしなかったからだろう。それだけが誇りだ。
布君ともそんな話をした。当時の右派では、左翼をやっつけるために警察に協力するべきだと主張する人もいた。私らは反対だった。
密かに左翼の顔写真をカメラで撮って、警察に持って行く右の人もいた。又、左翼のビラを集めて警察に持って行った人もいた。
本人は「愛国心からやったのだ」と言うが、私は信じない。それは卑怯だ。許せない。同じ大学の学生を敵に売ることだ。
学校側だって、けっこう厳しかったが、警察に知らせたりすることには慎重だったし、考えに考えた末に機動隊の導入だって決断していた。
今は、何も考えずに、警察に任せている。すぐに警察を呼ぶし、教え子を警察に渡している。これでは教育者としての意味がない。
あの当時、じっくりと考えていた。そして教え子を警察に渡していいかどうか、考えに考えていた。それは教育者としての最後の義務だったと思う。
だから、考えが違っても、学生は教授たちを信頼していた。全共闘の人間も三島由紀夫や林健太郎、村松剛などの硬派な右派学者を、(口先では批判しても)内心は尊敬していた。
三島が自決した翌日、東大では東大全共闘の大きな立て看が出た。「追悼・三島由紀夫」と。東大全共闘との対決だって、そう考えると、お互いに敬意が溢れている。
あの頃の講演・対談は、TBSが全て公開するそうだ。DVDにして売るのかもしれない。これはいいことだと思う。
三島事件から50年まであと2年。その時は、ドッと出るだろう。又、三島が書いた作品で映画になったものもドッと出る。又、見てみたい。
学生道場では、どんな勉強をしていたのか。どんな本を読んでいたのか。私はすっかり忘れてしまったが、布君は記憶力がいいから、覚えている。
早いとこ対談をやって聞いてみたい。
テーマは〈『天皇の味方です』を書いて〉。会社の経営者、弁護士、大学教授を前にして話す。ホリプロの社長も来ていた。
すごい人たちの前で私ごときが喋っていいものだろうか。1時間話し、そのあと、質疑応答。
終わって、又、車で送ってもらった。申し訳ない。
終わって、又、車で送ってもらった。申し訳ない。
亡くなった西部邁さんの最後の本『ファシスタたらんとした者』(中央公論社)を読む。奥さんが亡くなったあと、〈まるで半病人〉のようになった西部氏。その西部氏を見つめ、冷静に観察するもう一人の西部氏がいる。こんな形で最後の作品を残したのか。驚きだった。
終わって、日比谷へ。塩村あやかさんの政治パーティに出る。佐高さんなど多くの人が出ていた。
①2月17日(土)。金沢で講演会と対談がありました。地元の岩井正和さんが主催で、はじめに私が憲法について講演。それから飛松五男さんと対談。憲法、日本の安全、警察などについて話し、その後、質疑応答。写真は左が司会の岩井さん。鈴木。飛松五男さんです。
㉕19日は原田正治さんとアーチャリーを会わせ、私が司会する予定でした。すっかり忘れていて、千葉から急いで行きましたが、3時間遅れで着きました。原田さんと。
原田さんは『弟を殺した彼と、僕』(ポプラ社)という本を書いてます。弟を殺され、犯人を許さないと思ったのですが、面会するうちに、変わります。死刑にしないで中で反省してほしいと思います。死刑制度にも反対です。〈死刑〉について考えさせる本です。アーチャリーはオウムの麻原の三女です。その対談状況を映画で撮りました。
㉘私も挨拶しました。7年ほど前、文化放送の「夕やけ寺ちゃん活動中」で、週1回、一緒に出てました。彼女は脚本も書いてました。そこで、政治家、小説家など沢山の人に会い、話しました。彼女は、そこで政治について勉強し、このままではダメだ、と思い政治家になりました。
㉛「100の聖域」のトップは赤報隊事件で、私が書いてました。そうか。この前やったNHKの「未解決事件 赤報隊」でも、9人に絞られた「容疑者」のトップとしてインタビューされてました。この雑誌でも私はトップなんですね。