森田必勝氏のお墓参り。11/11(土)
11月11日(土)。三重県四日市に行ってきた。
11月になると、どうしても三島事件のことが思い起こされる。
国を憂うる人たちは、春や夏に運動し、自決するのは秋に多い。どうしてだろう、と言ってた人がいた。
そうか。野村秋介氏は10月、三島、森田氏は11月だ。淋しい秋が、さらに淋しくなる。もの悲しさを誘う季節なのか。
11月25日には憂国忌がある。又、全国でも追悼祭が行われている。前日は、顕彰祭が行われている。
その頃になると、森田さんの家もあわただしくなるし、だから、11月になってすぐに、お伺いし、お墓参りをしようということになり、10年ほど前から実行している。
あの事件から今年で47年だ。でも、あの日のことは、皆はっきりと覚えている。不思議なものだ。
その日の記憶だけを聞いて書いた本も出ている。中川右介さんの『昭和45年11月25日=三島由紀夫自決。日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書)だ。
話しかけています
これが出たのは7年前だ。2010年9月30日第一刷になっている。だから、「三島由紀夫没後40年」と書かれている。「あの瞬間、日本と日本人の何かが変わった」と本の帯には書かれている。
この本を出した動機。そして今はどう考えているのか、を本人に聞いた。
11月13日(月)の夜、ANAインターコンチネンタルホテルで会ったのだ。座談会でだ。「楯の会」班長だった本多清氏も出席した。この事件の意味、意義は大きい。
本多氏は、三島の自決の直前に、「実は結婚するんです」と打ち明けた。そして「仲人をやってほしい」とお願いした。
三島は、本当はそれどころじゃない。数週間後には、自決が決まっている。
しかし、それを悟られてはならない。だから、即座に「仲人」を引き受けた。そして、「おめでとう!」と言った。
水をかけています
普通の人間なら、迷う。一瞬、考え込む。しかし、三島は、そんなことは全くなかった。すぐに、反射的に、「おめでとう」と言って、「快諾」したのだ。とても出来ることではない。
そして、11月25日、自決の日。ちょうど倉持氏は昼食をとっていた。その時、テレビに「事件」が映し出された。
驚いた。俺は何をしてるんだ!と思った。
その後、三島の奥さんから電話で「手紙を預かってる」と言う。
取りに行った。すぐに話読んだ。「結婚式に出れなくてすまない」と書いてあった。それと同時に、結婚をし、その幸せの中にある本多氏を決起に誘うことは出来ない。といったことが書かれていた。少なくとも本多氏にはそう読めた。ガーンと殴られたような気がした。「『憂国』をやらなくちゃならんのかと思った」と言う。『憂国』とは三島の作品だ。2.26事件の時、新婚だったために決起から外された将校が、その直後、自決する。上の方から、決起将校を鎮圧するために出動せよと命令されたからだ。その出動の前夜、奥さんと自決する。
お墓に書かれています
この壮絶の極みのような映画がある。あれを俺もやらなくちゃいけないのか、と本多氏は思ったという。すごい話だ。
又、『憂国』ではモデルになった、その将校の出身地へ、本多氏は何度も(知らずに)行っていたという。
そんな不思議な偶然が重なる体験が沢山あった。座談会では、かなり、詳しく話していた。どれだけ紹介されるか分からないが、すごい話だった。
これは『週刊現代』の企画だ。11月の24日発売だそうだ。ちょうど三島事件の日の直前だ。
そして、ここで他の2人とも話していたが、三島が1人で自決していたら、多分、「三島事件」とは呼ばれなかっただろう、と語った。
それは、「一作家の自殺」として語られたのではないか。森田必勝氏がいて、その他に3人の「楯の会」の人がいた。三島をむしろ突き上げるようにして決起した。
だからこそ、同年輩の人や後輩たちへ大きな影響を与えた。私らもそうだ。
お参りを終えて
森田氏は私の2才下だ。大学で私らが森田氏を誘い、運動に誘い込んだ。
誘った「先輩」の我々は運動をやめていたのに、誘われた後輩の森田氏はずっと運動を続け、三島氏と自決した。
これはたまらなかった。「やましさ」を感じた。いや、「犯罪的」なものさえ感じた。申し訳ないと思った。
そこから新しい〈運動〉が始まった。一水会だって、三島事件があったから生まれた。他の、いわゆる「新右翼」運動も皆、そうだ。
さっきも言ったように、三島一人が自決していれば、〈事件〉にならなかった。森田氏や他の3人がいたから、〈三島事件〉になったのだ。さらに、それに続く〈運動〉が生まれたのだ。「週刊現代」では、そんな話をした。
四日市に行ったのは、「週刊現代」の座談会の前日だった。
でも、感じていることは同じだ。俺たちは何もやっていない。そう思ったんだろう。申し訳ない、という気持ちだ。森田氏の前では全く頭が上がらない。
お兄さんとは1年ぶりの再会です
墓参では、いつも厳粛になる。だらしがない我々をきつく叱ってほしい。
でも、森田氏は、いつも明るい。決して、人を批判しないし、叱らない。「仕方ないですね。焦らないでやって下さいよ」と慰めてくれる。
他党派との内ゲバで、皆が殺気立っている時も、森田氏だけは、冷静だった。「少ない仲間で内ゲバをやっても仕方ないでしょう」と言っていた。
彼の方が正論なのだが、「じゃ、やめよう」とはいかない。そんなことがいくつかあった。
ギリギリのところで動き、でも、明るく、開き直っていた。
皆が、「坂本竜馬がいいよな」と言ってた時も、「俺は土方歳三の方が好きだな」と言って、皆を呆れさせた。
その当時、新選組が好きだなんて言う右翼は一人だけだ。日本中探しても、森田氏だけだろう。
「土方たちは京で天皇を守るために闘った。そして、最後の最後まで闘った。函館まで行って闘い、死んだ。その闘いに生きた姿がいい」と言う。
そして、森田氏に勧められて、司馬遼太郎の『燃えよ剣』を読んだ。私も土方のファンになった。
ご自宅で
でも、右翼全体では、森田氏と二人だけだった。と思った。新選組の土方が好きだなんて言うのは2人だけだし、少数派だ。
森田氏との間にもう一つ、共通点があった。二人ともミッションスクールを出たことだ。
それも、当時は2人とも知らない。お互い、言わない。「ミッションスクール」なんて、何か女性的であり、外国的な感じがして、恥ずかしかった。
だから、2人とも人には言わなかった。又、お互い、過去の話はしなかった。現在の左翼との闘い。それしかなかった。
私が知ったのは、森田氏の自決後だ。
死後に森田氏の日記が出版された。読んで、森田氏は中学、高校と6年間も、ミッションスクールに通っていたことが知れた。それも、カソリックの学校だ。
必勝氏の胸像の前で
日記では、聖書の話や、キリスト教の映画を観たことなどが書かれていた。
大学時代にそのことを少しでも知っていたら、いろいろと話し合うことが出来たのにと残念だ。四日市ではお兄さんとも、そんな話をした。
それにしても、必勝氏の日記を本にしてくれた宮崎氏も偉い。47年前は、スキャナーやコピーはない。カメラで接写することも出来ない。だから、何人かで分担し、ひたすら書き写した。これはと思うページを書き写したという。全て手作業だ。よくやったもんだと思う。気が遠くなるような作業だ。
それが、遺稿集『わが思想と行動』(日新報道)だ。
私は何度読んだか分からない。読み直すたびに涙が出る。
必勝氏はじっとこちらを見ています
そうだ。森田必勝氏のお兄さんをぜひ、若松孝二監督に会わせたかった。これは返す返すも残念だ。
若松監督の「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」をお兄さんが観て、「ぜひ監督にお礼を言いたい」と言う。「じゃ、四日市に連れて行きますよ」と私は軽く請け負った。
でも、その直後、監督は自動車事故で亡くなってしまった。なんとも残念だし、悔しい。
今は年に1回、四日市にお墓参りに行っている。
数年前には四日市で映画会をやった。そして、森田必勝役の満島真之介さんが来てくれた。そしてお兄さんに会った。「再会」だった。
実は、2人は前に会っている。映画を作る前に2人は会っている。満島さんが誰にも言わずに一人で四日市に行き、森田さんの家を探して、訪ねた。「今度、必勝さんの役をやるのです」と挨拶しておこうと思ったのだ。
横に行っても、視線はこちらを見ています
ところが、玄関で会ったお兄さんは凍りついている。声も出せない。
後で聞いてみると、「必勝が帰って来た!」と思ったという。
そんな馬鹿な、と思った。あんなにいい男ではない。それに、今生きていたら60くらいじゃないか。
そう思ったが、お兄さんが言う。「私にとって弟はずっと25才のままです」。
これには驚いた。家には必勝氏の写真がある。庭には、胸像がある。毎日25才の必勝氏と会っているのだ。
その話を聞き、25才の胸像に会い、私らも同じ思いにふけっていた。毎年11月は、そういう季節である。
四日市に行った3日後、今度は私は秋田県大館市に行った。そこで私の講演会があったからだ。
お兄さんから思い出話を聞きました
秋田県は、子供時代に住んでいた。だから故郷で講演会をやった気がする。嬉しかった。
遠くからも、人が聴きに来てくれた。新聞に広告を出したので、それを見て来た人がいた。
又、青森県の佐高塾で講演をやり、その時、聴いた人も、わざわざ来てくれた。嬉しかった。
そして翌日は、花岡事件の記念館。小林多喜二の生誕地跡などを見た。又、世界一の図書館も見たし、私がかつて通っていた保戸野小学校にも行ってみた。
タイムスリップをしたような気分だった。とても懐かしく、又、勉強になった。
























「週刊ダイヤモンド」が「右派・左派」の大特集

①11月11日(土)。三重県四日市に行ってきました。森田必勝氏のお墓参りです。1年に1度は必ず行くようにしています。自決した11月25日の前に行ってます。お墓の前にぬかずくと、厳粛な気持ちになります。
⑫11月10日(金)。南大塚ホールで。「芸人9条の会」。豪華な会でした。9条を守り、安倍政権を笑い飛ばそうという集まりです。壇上は、神田香織さん。「おしどり」。松元ヒロさん。オオタスセリさんですね。左はパギやん。
⑲これは11月13日(月)。ANAインターコンチネンタルホテル会議室で。「週刊現代」の座談会です。メンバーがいいですね。中川右介さんは『昭和45年11月25日=三島由紀夫自決。日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書)を書いた人。本多清氏は、「楯の会」班長で、三島から最後の手紙をもらった人です。皆で、三島のことを語り合いました。
㉖「あっ! 花岡事件があったところだ」とすぐに分かりました。中国人、朝鮮人の強制連行、暴行、脱走事件などがあり、多くの方が亡くなりました。私が、『腹腹時計と〈狼〉』の中で、そのことを書いたので、覚えてます。この記念館建設には石田さんも協力されたのです。詳しく説明してくれました。
㉝さかもと未明さん。高須基仁さんと。さかもとさんは、以前、漫画を描いていて、かなり激しい政治漫画を描いてました。私は、夢中になり、読んでました。そして何回かお会いしました。小林よしのりさんのような漫画だ、と思いました。しかし、病気をして、しばらく休んでました。とても残念です。今、元気になってお会い出来ました。嬉しかったです。
1/6(土)名古屋