ドナルド・キーンさんが日本に帰化したということは知っていた。そして新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」が出来たということも知っていた。
多分、3年前だ。一度、行ってみたいとは思っていた。
でも、キーンさんは、そこによく行くのだろうか。月に1回でも行って講演するのなら、その日に行ってみたいと思っていた。
それで、ネットを見ていたら、何と、「ドナルド・キーン・センター柏崎」の開館3周年記念で特別講演会があるという。
ただし、このセンターでは人が入り切れない。かなり大きな会館(柏崎市文化会館フルフォーレ)でやるという。
これは是非聞きに行かなくては、と思った。その時に「キーン・センター」も見てみようと。
9月19日(月・祝)だ。手帳を見たら、空いている。
その前、17日(土)、18日(日)は、新潟県新発田で「大杉栄メモリアル」があって行く。
あと、もう1日延ばして、柏崎へ行こう。同じ新潟県なんだし、近いだろう、と思った。
9月17日(土)は朝、東京を発ち、新潟で乗り換えて、新発田へ。
12時頃に着く。車内で椎野礼仁さんに会う。
駅から車で会場へ。新発田市生涯学習センターだ。
今回の講師は福島泰樹さん(絶叫歌人・僧侶)だ。
椎野さんは福島さんに短歌を習っている。だから、今日、東京から来たという。
午後1時から始まる。
初めに、映画「ベアテの贈りもの」の上映。いい映画だ。
私はベアテさんには何度も会ってるし、ニューヨークに呼ばれ、憲法についてのシンポジウムに参加したこともある。あとでその話をした。
映画が終わり、10分の休憩のあと、福島泰樹さんの講演。大杉栄の詩や、同時代のアナキストの詩、短歌などを紹介する。詠み、時には絶叫する。
又、右翼テロリストの朝日平吾の文章。
又、現代の新左翼の人々の短歌なども取り上げる。
歌を通して、その人々の人生、思想を語る。とてもいい話だった。
そのあとは駅前の居酒屋で懇親会。随分と人が集まりました。
「懇親会の人数では今までで最高です」と主催者。講師の福島さんがよかったからだ。
懇親会でも、大正時代のアナキスト、現代の運動、短歌などについて皆で大いに語り合いました。
この日は、新発田で泊まる。
翌、9月18日(日)、朝、田宮高麿さんのお墓参りに行く。
田宮さんは1970年の「よど号ハイジャック事件」のリーダーだ。ここ新発田の出身で、先祖代々のお墓がある。
ご住職さんにも挨拶をする。
そのあと、蕗谷虹児記念館に行く。
蕗谷は新発田が生んだ最高の画家だ。彼の描いた「花嫁人形」は切手にもなっている。
今年はパリで、「蕗谷展」が行われ、多くの人が集まったという。蕗谷は、若い時にパリで修業したこともあり、パリでも有名だ。
そのあとは、38度線の碑や新発田城に行くはずだったが、中止。
講師の福島泰樹さんは「田宮高麿の墓参りをしたい」と言ってたが、この日は、東京で法事があると言って、朝6時の列車で帰ってしまった。
福島さんは「絶叫歌人」として有名だが、それで暮らしてるわけではない。
普段の仕事は僧侶だ。28日(日)も檀家の法事が重なったようだ。
例年、案内してくれる斎藤徹さん(「大杉栄メモリアル」主催者)も用事ができたと言うので来ない。
椎野礼仁さんと、長野から来た平田竜次君、そして私の3人だけが取り残された。
じゃ、せっかくだから田宮さんのお墓と蕗谷虹児記念館だけは行ってみよう。あとは解散だ、と決めた。
17日(土)は新発田に泊まる。
18日(日)は午前中、タクシーで田宮さんの墓参。蕗谷虹児記念館。これは午前中に終わった。
列車で乗り換えしながら、長岡に行く。新発田よりちょっと大きいという感じだ。平田君も一緒に来る。
平田君がスマホでいろいろと調べてくれる。
まず、山本五十六記念館に行こうと、駅から歩き出した。
ところが、「河井継之助記念館」があるので、そこに先に入る。
司馬遼太郎の『峠』で読んで知っていた。案内の人もそのことを詳しく話をする。
「常在戦場」という額があった。
ここの殿様は、前は三河にいた。厳しい地方だった。だから、いつも「戦場」のようだった。今、長岡に来て、平和だ。ただ、いつも戦場にいる気持ちで頑張ろうとの意味で「常在戦場」と書かれているのだ。
それから、もうちょと歩くと、「山本五十六記念館」。とても広い。
乗った飛行機が、待ち伏せされ、殺された。その飛行機の残骸もあった。学校でも優秀だったようだ。又、ギャンブルも好きで、自分もやっていたという。
河井継之助と山本五十六。この2人の強烈な個性の前に、長岡はそのエネルギーを吸い尽くされたのかもしれない。
予約したホテルに向かってたら、何と、公園があり、山本五十六生誕の家がある。戦災で焼失したのだが、後に復元している。そこを見れる。
又、巨大な銅像もある。家の中に入ったが、誰もいない。「ご自由にどうぞ」という感じだ。小さいし、質素な家だ。階段は狭くて、急だ。
2階に上がるとすぐ勉強部屋。驚いたことに、その勉強部屋は2畳だ。机を置いたら、あとは何も入らない。横になることもできない。勉強するしかない。
そこで五十六は毎日、必死に勉強したのだろう。天井は低いし、狭い。平田君なんか、電球の笠に頭をぶつけていた。
下の応接間に入って驚いた。五十六の書いた書が額に入れられていて、あれっ、「常在戦場」って書いてある。
どこかで見たな、と思ったら、河井継之助記念館だった。河井も山本も、同じ言葉を書いている。
どっちも、長岡藩全体で愛された言葉のようだ。いつも戦場にいるような気分で、油断をするな。緊張して生活しろ。ということなんだろう。
他のとこも見て、ホテルに帰り、ここで泊まる。
さらに翌9月19日(月・祝)は長岡から柏崎に行く。
新発田も長岡も、柏崎も似ている。道は広いし、いい町だ。
でも人が少ない。大通りなのに、シャッター街が多い。この三都市だけでなく、全国の都市が抱えている問題なんだろう。
柏崎の駅から歩いて会場へ行く。「柏崎市文化会館アルフォーレ」だ。千人以上入る大ホールだ。そこが満員だ。
我々のように、よその県から来た人も多いのだろう。ついでに「キーン・センター」を見に来た人も多いようだ。
だって、講演会が終わると、「キーン・センター」行きのバスが何台も出ていた。
「ドナルド・キーン・センター柏崎」の「開館三周年記念特別講演会」が行われた。テーマは、「ドナルド・キーン 石川啄木の日記を読み解く〜最初の現代日本人〜」だ。
初めに主催者挨拶。市長の挨拶があり、まず「基調講演」。池田功さん(明治大学大学院教授・国際啄木学会会長)の「石川啄木の日記を読む〜キーン先生の啄木日記論を紹介しながら〜」。
とてもよかった。「国際啄木学会」という会があるとは知らなかった。
このあと、休憩を挟み、ドナルド・キーンさんの記念講演。だと思っていた。
でも、ちょっと違う。「記念講演」ではなく、「記念対談」だ。池田功さんとキーンさんの対談。壇上にソファーを並べて二人で話をする。
これも仕方ないか。キーンさんは94才だ。一人で長時間、講演するのは厳しいのだろう。
キーンさんと池田さんの対談だ。進行役(司会)はキーン誠己さん。日本人だ。
文楽の三味線弾きをしていて、キーンさんと知り合い、キーンさんが日本に帰化するのと同じ頃、キーンさんの養子になる。
壇上でも、キーンさんがよろめくと、すかさず「大丈夫ですか、お父さん」と抱きかかえる。「お父さん」と自然に口を突いて出る。
さらに、市民有志の合唱団による歌。石川啄木が作詞した歌を歌う。『春まだ浅く』(盛岡市立渋民小学校校歌)だ。そして、主催者挨拶だ。
それで、終了。「ドナルド・キーン・センター」に行く人はバスが出ます」と案内がある。その前に、キーンさんと挨拶しなくっちゃ。
去年の10月の「ミシマ シンポジウム(東大)」で、ちょっと会って挨拶している。多分、覚えてないだろうが、一応挨拶だけはしようと思い、名刺を持って並んで、挨拶した。
まず、名刺を出して、「去年、ちょっとお会いしました」と言ったら、キーンさんも、キーン誠己さんも、同時に、「あっ、鈴木さん!」と言う。覚えていてくれた。
「『石川啄木』の書評をアエラに書いてもらい、嬉しかったです。ありがとうございました。あれは、とてもよかった。感激しました」とキーンさん。
驚いた。そのことも覚えていたのか。こちらこそ感激だ。
あの本はいい本だが、とても厚い。400ページ近くある。だから、書評をする人は少なかったようだ。
私はアエラ編集部から「これをやってください」と言われて読んだ。読み切るのに時間はかかったが、とてもよかった。
日本人ではとても書けないと思った。キーンさんは、日本人以上に日本のことを理解してるし、日本を愛している。
日本人は、啄木の天才を認めながらも、借金ばかりしてる…と、女にだらしがない…と、啄木を批判する」。啄木をキチンと評価しろ。啄木こそ、「現代日本人」の最初の人だった、という。啄木だけでなく、日本の作家は、キーンさんを通して、世界に紹介された。谷崎も川端も三島も…。
キーンさんがいなければ、世界に知られなかったし、評価されなかった。
特に三島とは最も気を許した友人だった。
三島が死ぬ直前に、キーンさんに手紙を書いた。「事件の直後」にキーンさんに届くようにだ。
その冒頭は、「小生、とうとう魅死魔幽鬼夫になりました」とあった。
生前、ふざけて、自分の名前をこう書いたこともあったという。
ところが、「三島事件」で自決し、本当に「幽鬼夫」になった。
死んでいるのだ。よほど心を許し合った人でもなかなかできない。
もし日本の作家に言ったら、気が狂ったと思われる。「三島事件」の前に書いたのだし、もう気がおかしくなっている。そう言われるだろう。
でも、キーンさんはこの手紙を発表しなかった。少くとも、マスコミ報道の狂気が去るまでは発表しなかった。
4年ほどして、初めて発表して、『三島全集』にも入っている。時間が経ち読んでみると、「あんなに緊迫した状況の中でも、こんなユーモアに富んだ手紙を書いてたのか」と思う。又、「そこまで二人は心を許し合っていたのか」と思う。
三島にとってキーンさんはかけがえのない人だった。いや、日本の文学者全てにとって、キーンさんはお世話になったのだ。
キーンさんがいなければ、川端はノーベル賞を取れなかった。谷崎、三島なども世界に伝えられなかっただろう。
キーンさんの『著作集』は全15巻あるが、よし、全巻読んでみようと決意した。
そのあと、地元の合唱団による合唱「春まだ浅く」。
4時10分終演。終わって、ドナルド・キーンさんに挨拶をした。覚えていてくれた。
「『アエラ』に書評を書いてくれて、ありがとうございました。とてもよかったです」と言ってました。感激しました。
このあと、バスで「ドナルド・キーン・センター柏崎」に行く。とても立派だし、きれいだ。ゆっくりと見た。
柏崎駅まで、またバスが出るとのことで、駅に行き、そこから長岡に行く。そして新幹線で東京へ。
9月17日(土)から19日(月)まで3日間の新潟の旅だった。
新発田、長岡、柏崎と。かなり歩き回り、いろいろ見て回った。そして講演を聞いた。とても勉強になった。
パーティ(交流会)の前には「報告会」があった。
午後3時に始まった『唐牛伝』出版報告会。初めに記念講演。孫崎享さん(元外務省情報分析局長)が話す。
唐牛さんの活躍した60年の安保闘争に絡めて現在の国際情勢の話をする。〈戦後における安全保障とは--集団的自衛権と憲法--〉。
このあと、『唐牛伝』の著者・佐野眞一さんの報告。〈『唐牛伝』執筆を通して感じたこと〉。
それから交流会(パーティ)に移る。実行委員会代表挨拶(篠原浩一郎さん)。さらに、呼びかけ人や、当時、闘った人たちが挨拶。当時は「敵」だった私も挨拶をさせられた。
そして、中締め。
⑬翌、9月18日(日)朝、田宮高麿さんのお墓参りに行きました。田宮さんは、1970年に「よど号」をハイジャックして、北朝鮮に行った赤軍派のリーダーでした。田宮家代々のお墓があります。新発田に来た時は必ずここに来ています。
㉑9月16日(金)、午後6時半より四谷の主婦会館。「小沢一郎議員を支援する会」主催の「祝!参院当選。目指せ!衆院選勝利」の集会です。民進党の大型新人・鈴木ようすけさんと。元NHK記者で、身長190センチの「大型新人」です。「血液型もO型です」と言ってました。今度、衆院選に出るんですね。「何か格闘技やってたの?」と聞いたら、アマレスをやってたそうです。強そうですね。
㉕初めに記念講演です。この本に触れながら、孫崎享さん(元外務省情報分析局長)が話しました。「戦後における安全保障とは=集団的自衛権と憲法=」。60年安保闘争を闘った唐牛さんに触れながら、安保、憲法について語ってくれました。
㉙著者の佐野眞一さんと。日本全国を回って取材しています。60年安保の全学連委員長・唐牛さんはこんなにも魅力のある人なのかと思いました。唐牛さんの晩年、何度もお会いしました。一水会の勉強会の講師になって話してくれました。スケールの大きな人でした。
〈唐牛健太郎を書くことは私自身の過去を見つめ直す骨がらみの仕事だった。著者3年ぶりの本格評伝〉
と本の帯には書かれています。小学館も佐野さんも気負っています。