若松孝二監督は亡くなったが、監督に育てられた〈若松組〉の役者たちは皆、頑張っている。あの厳しい監督の下で鍛えられたのだから大丈夫だ。という信用があるようだ。
NHKの大河ドラマに出たら、若松組の人たちが、あちらにもこちらにもいて驚いたと出演者が言っていた。
今、NHKでやっている「コントレール〜罪と恋」は、「恋した人は夫を殺した人だった」という話だ。石田ゆり子、井浦新で、ハラハラ、ドキドキの展開だ。
井浦さんは、「日曜美術館」で全国を回り、美術関係の本を書き、さらに、こうしたドラマにも出ている。
満島真之介さんもCMや舞台で大活躍だ。
さらに、演技派の大西信満さんがいる。「実録・連合赤軍」「11.25自決の日。三島由紀夫と若者たち」など、若松作品では皆、重要な役どころで出ている。
そして「キャタピラー」では、難しい役に挑戦し、主演している。この演技は高く評価された。
そして、4月30日から公開される映画でも主演をやるという。
初日には舞台挨拶があるというので、行ってみた。新宿K's cinemaだ。夜9時からの回の前に挨拶するという。
じゃ、主演の大西さんと佐藤監督の2人が出るのかな、と思った。
ところが、映画館に行くと、「挨拶」のメンバーが出ていた。
何と、8人ほどが出る。主要な役者、全員じゃないのかな。
名前が出ていた。佐藤寿保監督。そして次の出演者だ。大西信満。イオリ。稲生恵。佐倉萌。川瀬陽太。愛奏。真理アンヌ。そして、川上史津子。三上寛。
えっ、10人もいるじゃないか。
それに、三上寛の名前を見つけて驚いた。
ウワー! 三上さんも出てるのか。今日、挨拶するのか。川上さんも知り合いだ。それで、控え室に押しかけた。
挨拶が終わってから行こうと思ったが、それじゃ、遅い。すぐに会いたいと思ったのだ。
大西さんもビックリしていた。「わざわざ見に来てくれたんですか。ありがとうございます」と。
川瀬陽太さんは、この前、佐野さんの出た映画の時に会ったばかりだ。
川上史津子さんは、「月蝕歌劇団」にずっと出ていたし、私もずっと見ていた。
さて、三上寛だ。皆も知る通りの歌手だ。青森出身の歌手だ。
実は、私は昔からの知り合いだ。
「久しぶり」「あれっ、どうして」という会話から始まった。「10年ぶりかな」「いや、20年ぶりかな」…と言い合った。
大西さんや川上さんが聞く。「昔からの知り合いなんですか?」と。「20年、いや、30年かな」と言ったら、「いや、鈴木さんが産経新聞に入った時ですよ。初めて会ったのは」。
ゲッ、1970年だよ。じゃ、46年前じゃないか。三上さんが、まだプロデビューする前だ。
元々は、「楯の会」の阿部勉氏と知り合いだったようだ。
阿部氏は秋田県の角館出身だが、顔が広いし、新宿のゴールデン街でもよく飲んでいた。それで、三上さんと知り合ったのかもしれない。
私は、(いろんなとこで書いてるが)、「70年」を前に、右派学生運動の内ゲバで、学生運動を追放された。それで郷里の仙台に帰り、本屋の店員をやっていた。
ところが、縁があって、産経新聞に入社することになり、1970年の4月に上京した。
アパートを探そうと思ってたら、「楯の会」の阿部勉氏にバッタリと会い、「じゃ、アパートが見つかるまでウチにいて下さいよ」と言われ、その日から、居候した。
そこは、六畳二間で、阿部勉氏と福田俊作氏(楯の会)が住んでいた。
楯の会が2人いるので、よく、集まり、いわば、「楯の会」の溜まり場になっていた。夜は、飲み会が多い。
翌日、皆寝てるのに、私だけがスーツを着て、会社へ行った。
そんなとこに、三上さんもよく来ていた。
まだプロデビューしてない。シロウトで歌っていた。
「じゃ、俺が後援会長になってやる!」と阿部氏が言って、「今日からプロだ!」とハッパをかけた。知り合いの赤坂の店に紹介してやった。
ところが、三上さんの歌い方が独特なもんで、店のママは、「もういいからね」と、お払い箱。しばらくは苦しい生活が続いていた。
阿部氏のアパートに集まるのは皆、学生ばかり。金はない。だから、「鈴木さんがいると、ウワー! メシが食える!」と喜んだんですと三上さんは言う。
私だけがサラリーマンで給料をもらってる。「いつも皆におごってくれた」と言う。
ウーン、そうだったのかな。でも、それまでは皆と同じビンボー学生。この年から産経に勤めて、かなりのお金をもらってる。それが嬉しかった。あるだけバンバン使っていたんだろう。
その頃は給料はお金でもらってた。まだ銀行に入金するシステムはなかった。通帳だって持ってない。
「随分とおごってもらいました」と三上さんは言う。
そうか、今は三上さんはビッグな歌手だ。じゃ、今度、お返しをしてもらおうか。
私がいない時は、ビンボー学生同士で小銭を出し合ったり、質屋に行ったりしてた。
「楯の会」の倉持君が学生証を出して、「寛ちゃん、これで金を借りてきて下さい」と言う。分かったと言って借りに行った。
昔は学生証でお金を貸してくれたんだ。
その話をしてたら、向かいで聞いていた大西信満さんが、「この倉持さんの役を僕がやったんです」。
あっ、そうだ。若松監督の「11.25自決の日。三島由紀夫と若者たち」で、「楯の会」の倉持役をやったのが大西さんだ。
三上さんの昔話に、まるで自分が体験したような感じがしたんだろう。面白い。
倉持氏は結婚して、姓を変えて、本多になった。本多清だ。
でも映画の中では、ずっと倉持で通している。かなり重要な役だ。
決起の8ヶ月前、1970年3月に、よど号ハイジャックが起きる。
その時、三島は倉持氏の家に電話をして、「先を越された!」と言った。
又、倉持氏が「71年に結婚するので仲人をやって下さい」と三島に言った時、即座に、「おめでとう」と言って承知した。
でも、70年11月25日に自決することは決まっていた。「71年」はない。でも、一瞬の動揺もなく「了承した」。これは三島が凄い。
そして、自決のあと、倉持氏に手紙が着いた。「あの時、行けないことが分かっていながら、承知した。申し訳ない」と。
倉持氏はさらに悩む。自分が結婚すると言ったので、「決起メンバー」から外したのではないか。結婚さえしなければ、「自分を連れて行ってくれたのではないか…」と。悩み苦しんだ。
去年の11月25日に、この倉持氏が夫婦でテレビに出ていた。奥さんがサラリと言っていた。「あの時、先生と一緒に死にたかったのよね」と。
これも凄い。でも結婚したので、外された、と思っている。2人とも。
でも、その前から、「決起メンバー」は決まっていた。
しかし、倉持氏は、そうは思いたくないのだ。だから若松監督の映画でも、そういった「倉持氏の苦悩」を入れる予定だった。
だが、映画が長くなり、完成期間も迫っていた。それで思い切って外したという。
じゃ、いつか、それをやってもらいたいと思う。
三上寛さんも、僕と会ったのもそうだが、昔の「倉持君」に会えたので、喜んでいた。
2年前、青森の寺山修司記念館に行ったら、そこに三上寛のビデオが流れていた。付き合いがあったんだね。という話をした。
それと、田原総一朗さんが昔、テレビディレクターだった時に作ったドキュメントをまとめて、最近発売された。
それには、デビュー前の三上寛さんも出ていた。歌手では食えないし、自転車で新聞配達をしていた。
その後、どうなるか分からない段階で放送したのだ。田原さんも凄い。
それに、人を見る眼がある。
又、信州大学の学生運動の活動家だった猪瀬さんも出ていた。後に、作家になり、都知事になるとは誰も思わない。
そんな学生の彼を取材し、その時点で放送してたのだ。これも凄い。
普通なら、そういうものは〈資料映像〉として取っておき、10年とか20年とか経って、偉くなった時に流す。「この頃から俺は彼に目をつけていたのだ」と言って。
でも、〈資料映像〉のまま消える人は圧倒的に多いのだ。その後、いくら経っても偉くもならない。逆に大きな犯罪でも起こせば「10年前に取材したけど、この時も変なことを言ってた」と〈変なとこ〉だけを使える。
でも、圧倒的大勢の人は、いい面でも悪い面でも突出せずに、そのままだったから、〈資料映像〉のままだ。
その点、田原さんも偉いが、このまま使おう、きっとこいつはビッグになると思わせた三上さんは凄い。キラリと光るものがあったのだろう。
どっかで、三上さんと対談したいな。産経新聞に入ったばかりの私のことをよく覚えているし。新しい〈鈴木発見〉があるだろう。
壮大にして、素晴らしいコンサートでした。ユージンプランニングの坂元勇仁さんから誘われた。いい機会を与えられて感謝します。不戦の9条を書いた憲法記念日に(偶然だろうが)重なっている。それにふさわしいコンサートだった。
三善晃作曲の「レクイエム」を栗山文昭さん指揮で演奏する。ユージンプランニングの田中ユミさんも合唱団に入って歌っている。戦争で亡くなった方々の魂を鎮め、呼び起こすような作品になっている。
終わって、栗山さん、田中さんと会ったので、「素晴らしかったです」と言いました。
特に合唱団が舞台だけでなく、左右の通路、そして後ろまで、グルリと取り囲んで歌う。400人以上の合唱団に囲まれて、歌を聴く。
凄い体験でした。初めての体験でした。感動でした。
終わって、坂元さんや聴きに来ていた礼仁さんたちと食事しました。今日は音楽の話ばかりでした。
長い間、自衛隊に勤め、その後も予備自衛官だったが、安保法制に抗議して、予備自衛官の登録も抹消した。今は反戦活動をやり、「週刊金曜日」の「中野読者会」を主宰している。中野区上高田3丁目に住んでいる。
エッ、私は上高田1丁目だよ。そこに、あの寅さんが出席。「私は上高田5丁目ですよ」。これは奇遇だ。奇跡だ。上高田だけで3人。上高田「読者の会」ができるよ。
話はそんな「出会い」から始まり、自衛隊の今、そして憲法改正に向かう安倍政権。自衛隊員はどう思っているのか。といった国防論になりました。
終わって、土風炉で飲みました。
本間さんは元・博報堂の社員。だからこそ、書ける。実は本間さんとは私と対談し、『誰がタブーをつくるのか』(亜紀書房)を出している。この本のサブタイトルはこうだ。「原発広告。報道を通して日本人の良心を問う」。又、対談をしたい。
この日、学校が終わり、タクシーで大手町に。読売新聞大手町ホール。そこで、鴻上尚史さんの芝居「イントレランス」を見る。
「イントレランス」とは「不寛容」の意味だ。ある日、宇宙難民が地球に押し寄せ、各国は数十万人単位で「受け入れ」を決める。
しかし、日本では、排外主義デモが起こり、「宇宙人は出て行け!」という声が強くなる。そう、あの在特会のヘイトスピーチデモを連想させる。
「日本を守れ!」と立ち上がる「愛国者」たち。そして、迫害される宇宙難民たち…。そこに、愛があり、闘いがあり…と。鴻上ワールドが展開する。
昔、私が週刊「SPA!」に「夕刻のコペルニクス」を連載してた時、鴻上さんも連載していた。「SPA!」の看板だった。
そのあとも、何度か会ったし、鴻上さんのラジオ番組にも呼ばれた。しかし、最近はずっと会ってなかった。
「本当に久しぶりですね」と挨拶したら、「ランザンで偶然、バッタリ出会って以来だね」。
えっ、そうでしたっけ。「ランザン」って喫茶店ですか。とにかく、面白い芝居だったし、考えさせられた。それで、本も何冊か買った。
今度、どっかで対談しましょうと言いました。この日は、誘ってくれた御手洗さん、そして礼仁さんたち5人で、終わって、飲みました。
芝居と芸術の話ばかりで盛り上がりました。
石塚さんは三島由紀夫の人形も作っている。それが地下鉄の広報誌の表紙に載り、話題を呼んだ。講道館の醍醐先生(十段)が、それを見せてくれた。
先生は三島由紀夫の「ニッポン人」のモデルになった人だ。それで私は石塚さんを知り、個展に行き、さらに『紙の爆弾』で対談した。
今回、深川江戸資料館では、「石塚公昭の世界」で、石塚さんの作品が並んでいる。
それと同時に、特別イベント〈朗読・音楽・スライドで味わう「乱歩と鏡花」〉をやっていたので、それも見た。よかった。石塚さんとも、ゆっくり話をしました。又、どこかで対談したいですね。
これだけの体験を持ち、分析力を持った人を、いつまでも「スナック」のマスターにしておくのは勿体無い。もっともっと、活躍してもらうべきだ。連赤体験を通し、この今の日本を見る。そんな本も出してほしい。私が聴き役を務めます、といった話を当日、私はしました。
懐かしい人たちとも会いました。盛況でした。飛松さん、山本直樹さん、愛さん…なども來てました。
最終の新幹線で帰りました。
①着物デザイナーの芝崎るみさんと。
〈芝崎るみ創作着物展。『着る物語展』〉で。4月29日(金)。浅草のアミューズ・ミュージアム2階。4月26日(火)から5月1日(日)まで「着る物語展」は開かれ、4月29日(金)は、オフィス「再生」による詩劇「踊る20世紀」。そして劇作家・高木尋士氏と芝崎るみさんのトークもありました。
⑩佐藤寿保監督の衝撃大作「華魂(はなだま)」が4月30日からロードショー公開されました。新宿K's cinemaでは初日、4月30日の夜9時からの回の前に、監督・出演者の挨拶がありました。挨拶する主演の大西信満さん。左は歌手の三上寛さん。右は真理アンヌさん。大西さんは「連合赤軍」「11.25自決の日」など若松孝二監督の作品に出ており、「キャタピラー」では主演でした。「華魂」でも主演で、頑張ってました。鬼気迫る演技です。
⑭これはポレポレ東中野です。映画「マンガをはみだした男 赤塚不二夫」の上映が終わり、トークの時ですが、この映画の監督・冨永昌敬さん(中央)と、プロデューサーの坂本雅司さん(右)。左は、赤塚さんと親交があり、赤塚さんから随分とカンパしてもらった足立正生監督です。足立さんがアラブに行く前に赤塚さんはかくまってくれ、300万円の費用も作って渡したそうです。「背広もないだろう」と20着、作ったくれたそうです。若松監督もお世話になったんです。赤塚さんは、まるで神様のような人ですね。こんな危ない人と付き合い、お金や背広もあげたし。