7月4日(土)、函館に行ってきた。唐牛健太郎さんの墓前祭に出たのだ。
唐牛さんは60年安保の時の全学連委員長だ。全国の学生を動員し、国会を包囲し、国会に突入した。また、このデモの中で東大生の樺美智子さんが殺された。
騒然とした日々だった。激動の日々だった。その革命的な時代を作り、闘ったのが唐牛さんだ。
唐牛(かろうじ)という名前からして強そうだ。安保闘争が終わり、全学連委員長を辞めてからも華々しく、伝説的な日々だった。
漁師になって船に乘ったり、居酒屋を開いてみたり、セールスマンをやったり、堀江青年と一緒にヨットの学校をやろうとしたり…。
さらに、(元・武装共産党の委員長で、この時は「右翼」になっていた)田中清玄や山口組の田岡組長とも付き合い、援助を受けていたと、マスコミに大々的に書かれた。
保守派や左翼のジャーナリズムは「汚れた英雄だ!」と大キャンペーンを展開していた。
しかし、一貫して闘う男だった。今でも、慕い、偲ぶ人が多い。
そんな人々が、7月の第一土曜日に、ここに集まるのだ。
海の見える、函館山の中腹だ。そこにお墓がある。
本当のお墓は市内のお寺にあるのだが、ここは26年前に、同志・後輩たちが集まって造ったお墓だ。記念碑かもしれないが、「唐牛さんのお墓」と呼んでいる。
アーチストの秋山祐徳太子さんが設計し、アートな墓を造った。表面はギザギザになり、ちょうど海の波を表している。
舞踏家の麿赤児は前に、この墓の前で追悼舞踏を踊ったが、興が乗って、墓の上に飛び乗り、激しく踊った。
ところが、波のように、ギザギザだ。足が血だらけになりながら、それでも踊ったという。
唐牛さんは一代の英雄だ。そして若くして亡くなった。
生まれたのは1937年2月11日だ。紀元節の日だ。
ただし、本人は、それを気にしていて、「2月11日生まれ」を隠していたという。紀元節は右翼・反動に利用されている。それと同じ日だということに引け目を持っていたのかもしれない。
そうだ。元衆議院議員の井脇ノブ子さんも誕生日は2月11日だ。毎年、この日に「お誕生日会」をやっている。国会議員も大勢来ている。今年も私は参加した。「国の誕生日と同じか」と驚いた。
さて、唐牛さんだ。あれだけの活躍をし、闘い、その後は全国を流浪し、いろんな仕事についた。
でも、42才で亡くなった。若かった。若すぎた。
三島由紀夫は45才で亡くなり、若いと惜しまれたが、唐牛さんは三島よりも若くして死んだのだ。
「唐牛が今、生きていたら」「もう一度、闘ってくれたら」と思い、悔し涙を流している人は多い。
そんな人々が、ここに集まる。唐牛さんと一緒に闘った人たち。その後輩たち。そしてファン。多くの人たちが全国から函館山に集まってくる。
来年春には、函館までの新幹線が出来る。「じゃ、来年は新幹線で来よう」と話し合ってる人もいた。
私は毎年来ている。ここ数年前からのことだが。6年ほど前からだと思う。
ここで墓前祭をやり、そのあと、市内のお店で懇親会があり、二次会、三次会となる。
私は二次会は欠席し、いつも、函館山に登って、「日本一の夜景」を見ている。本当に素晴らしい。
唐牛さんも、ここから昼の函館、夜の函館を見て、愛郷心を持ち、そして闘ったのだろう。
「でも、どうして右翼のお前が」と思う人がいるので、いつも、墓前祭では説明している。
ある情報誌のパーティがあり、そこで偶然、唐牛さんに会い、「この人があの伝説の全学連委員長か!」と思った。
それ以来、いろいろと教えてもらったり、話を聞かせてもらった。
一水会勉強会にも講師で来てもらった。「右翼の前で喋るなんて初めてだよ」と言いながら、楽しそうに話してくれた。
でも、その時は亡くなる数年前だった。もっともっと沢山、話を聞きたかった。教えてもらいたかったのに残念だ。
唐牛さんは華々しい伝説に包まれた人だ。私は同時代を闘ったわけではないので、その辺のことは具体的には知らない。本で読むだけだ。
今、作家の佐野眞一さんが評伝を書こうと挑戦している。出来るのが楽しみだ。
前にも書いたが、名古屋で湖西市長の三上さんと対談した時、婦人に話しかけられた。村瀬さんという。
「いつも、私のいとこのことを書いて下さって、ありがとうございます」と礼を言う。
「えっ? いとこって誰ですか」と聞いたら、それが唐牛さんなんだ。驚いた。
名古屋で集会をやるときは、いつも来てくれる。佐野さんにも教えてあげたら、わざわざ取材に行ったという。
唐牛さんが亡くなって、35年だ。生きていたら76才か。まだまだ、やれたのに、残念だ。
唐牛さんには、晩年、お世話になった。そして今でも、函館山では、いろんな思い出が語られ、新しい「発見」もある。
ある人が言っていた。「全学連委員長だった時の唐牛さんに憧れ、その後の流浪は附録だと思っている人が多いが、違う。私は、その後の唐牛さんの生き方で励まされ、生きてこれました」と言う。
会わなくても、マスコミが報じてくれる。「今、船乗りをしている」、「今、居酒屋をしている」…と。
あっ、唐牛さんも一生懸命、頑張っているんだ。私も頑張らなくてはと思って生きてきました、と。全国の多くの人々への励ましになってきたんだ。
又、労働組合で闘っている人、ものを書いてる人、そして、マスコミで活躍している人もいる。
「私は唐牛の最後の女でした」と告白してた人もいた。おいおい、奥さんもいるんだよ、と思ったが、同志的な意味での女性の仲間ということらしい。
でも、「闘う男」唐牛さんは、モテた。「あの顔からは信じられないだろうが、モテた。男は顔じゃない。いかに闘うかだ」と昔の仲間たちが言う。
「だから、お前だって、もう一度、闘えば、モテる!やってみろ!」とハッパをかけられた。
又、「これは時効だからいいでしょう」「とても奥さんの前では言えない話ですが、実は…」と言って、暴露話をする。奥さんがいるのに…。でも奥さんも、ニコニコして聞いている。
そうだ。ジャーナリストの猪野健治さんも唐牛さんに会ったと書いていた。
何の本だったかな。ある時、猪野さんが唐牛さんに呼び出されて会ったら、「ちょっと待ってくれ」と言ったまま帰ってこない。女性と一緒に某所にしけこんでいたらしい。
その話をしたら、「そんなことは、しょっちゅうだよ」と皆に言われた。
この猪野さんは「新右翼」という言葉を作り、広めた人だ。
もう一人、唐牛さんがらみの話を函館でした。
一水会を作った時の仲間で阿部勉氏という男がいる。元「楯の会」一期生で三島さんには随分と可愛がられた。
その阿部氏も、もう亡い。去年、奥さんが亡くなり、葬儀に行った。
その時、友人が言っていた。奥さんは昔、ベ平連だった。それなのになぜ右翼の阿部勉に惚れたのか。
それは「後姿」だという。
夜、飲んで、別れる時、去ってゆく阿部氏の背中を見て、「唐牛さんとそっくりだ」と思った。
唐牛さんに会ったことはないが、テレビや、雑誌などでその後姿を見ている。ソックリだった。同じだと思った。
そして、「阿部勉は信用出来る」と思い、結婚したという。
そうか。唐牛さんは、いろんなところに出てきてくれて、助けてくれたんだ。
そんな感想を函館山では言った。又、札幌から来て合流した高橋夫妻を紹介した。
墓前祭が始まったのは午後3時だ。お参りし、皆が挨拶し、記念撮影をし、散会。北海道新聞の人が取材に来ていた。(翌日、大きく出ていた)。
そのあと、6時半から場所を移して、懇親会だ。
高橋君らと僕は、「じゃ、その時間に行きますから」と、別行動。
函館山の下の方にある、真っ赤なお墓を見る。
「号外屋」さんの墓で、やたらと派手だ。
それから、元・イギリス領事館などを見て、懇親会場へ行く。
懇親会では、多くの人たちから唐牛さんの話を聞いた。
「その後の唐牛さんのニュースを聞いて励まされ生きてきました」と言った人。「唐牛の最後の女です」と言った人などだ。
そして、終わって、車で函館山の頂上へ。
土曜の夜ということもあって、もの凄く混んでいる。
ロープウェーではどれだけ待つか分からない。行きはタクシーで、帰りはロープウェーにしようと思った。
タクシーで山道を登るのも混んでいる。バスやタクシーがなかなか進まない。やっと進めるんだ、と思ったら、又、渋滞だ。
そして、やっと山頂の展望台へ。
今は、外国からの観光客も多いし、山頂から見る夜景は本当に素晴らしい。
高橋君たちと見てる時に、「毎年来てるけど、一度、日帰りで帰ったことがあったな。あれは何の用事があったんだろう」と、聞いた。調べてくれた。
「去年は一泊してます。一昨年ですね。墓前祭が終わって、すぐにタクシーで函館空港に行って東京に帰ってます」と言う。
「次の日が、西宮で内田樹さんと対談でした。次の日、函館からだと間に合わないので、夜に東京に帰ったんです」と高橋君。自分のことなのに、他人に調べてもらった。
あっそうだ、と思い出した。確か、七夕の日だった。7月7日(日)だよ。
やっと内田さんに会えたのだ。鹿砦社の福本氏が交渉してくれた。対談が実現した。
私は昔から内田さんに会いたいと思っていた。何と、内田さんもそう思っていたという。すぐに対談は実現した。
そして、一昨年の7月7日(日)に対談は実現した。
福本氏が言っていた。「今日は、奇しくも7月7日の七夕です。お互いに会いたいと思っていた二人が会ったのです」と。うまい説明だ。
この日、西宮に行く為に、前の日、7月6日(土)は函館に日帰りで行ったのだ。
5時に終わるとすぐに、車で空港に向かった。
「何だ、懇親会に出ないのか。何のために来たんだ!」「じゃ、来なければよかったのに」…と、酷いことを言う人もいた。じっと耐えて、帰った。
おかげで次の日、内田さんに会い、さらに何度か会って、対談集が出来たんだ。本当によかったと思う。
そこで話を戻す。今年の7月4日(土)だ。墓前祭に出て、懇親会に出て、そのあと、函館山に登り、最高の夜景を見た。
それからホテルに帰る。「雰囲気のいいバーがあるんですが、行きませんか」と高橋君に誘われたが、眠いので失礼した。
前の晩、徹夜で仕事をした。フラフラだ。「じゃ、皆で楽しんできなよ」と言って、部屋に入ってくすぐに寝た。
翌日、電話で起こされた。集合時間にはまだある。
高橋夫妻はもう市内を散歩している。「おおさか誠二さんと徳永えりさんが街頭演説をしてます」と言う。
エッと思った。じゃ、会いに行こうと、出かけた。
駅前でやっていた。二人ともビックリしていた。
集団的自衛権反対の演説をしている。「鈴木さんが来てくれました。一言お願いします」と言われ、私もマイクを取って、話しました。
いやー、思わぬ出会いがあり、思わぬ展開があるもんだ。
それから、駅前の朝市に行く。前から気になっていたが、ここは、いろんな丼がある。海鮮丼だ。安いものから、高いものまで、いろいろだ。
その中に、「5000円の丼」があるという。有名だ。
それを一度、食べてみたい、という〈夢〉をもっていた。
いろんな店を探した。あった。
「蓮華丼(れんげどん)」という名前だった。
大きさは普通の丼だ。しかし、豪華だ。アワビ、ウニ、イクラ…と高価なものが山積みだ。値段も5800円! 凄いね。「日本一高い丼」だよ。それを頼んだ。
写真を載せたので見てほしい。これを一人で食べちゃ罰が当たる。
写真を撮った後、4人で分けて食べた。朝からビールを飲みながら、「5800円の丼」を食べたんですね。
それから、TSUTAYA(つたや)に行く。本屋だ。「代官山TSUTAYA(つたや)」と共に有名だ。
本屋だけど、日本一広いスペースの中に、喫茶店や、キッズコーナーや、文房具、CD、衣料品なども売っている。デパートの中にある本屋さん。という感じだという。
ぜひ行った方がいいと、出版社の人たちに言われていた。それで行ってみた。
噂以上だった。驚きの連続だった。広すぎて、疲れ果てた。
それから、街を見て、昼食。もう昼メシか。
「バスク」という有名なスペイン料理の店に高橋夫妻が案内してくれる。シェフがバスクで修業したので、それを店名にした。
そこに、私のいとこの上谷俊夫さんも呼んでいた。
上谷さんは、ここの市会議員を長くやっていた。今は辞めている。
でも最近の国会の状況が気になって仕方がない。「もう一度、議員になって下さい!」と私は言いました。
それからは、「新選組遺跡巡礼ツアー」になった。「土方歳三最期の地」に行った。お参りをした。
又、亡くなった幕府の人々を悼む「碧血碑」に行った。
忠義のために死んだ人の血は、碧(みどり)に変わるという。そこから付いた。幕府の人々、土方など新選組の人々を祀っている。
そして、「官軍」の人々を祀る護国神社にも行った。
「ここは前は、靖国神社という名前だったんです」と言う。そうなのか。今は、護国神社だ。
帰りの飛行機は7時半だ。まだ時間がある。
「もう一度、函館山に行きたいな」と私は、我が儘を言った。
前の日に夜景は見てるが、昼、見るのもいいだろう。それに昼は、すいてるし。
それで、行ったんですよ。とてもきれいだった。夜景では見えない所まで、広々と見える。
おっ、凄いなー。昼もいいなーと思って、見ていた。
その時だった。知らないおじさんに声をかけられた。
「あのー、失礼ですが、鈴木さんじゃないですか」
「ハイ」。
「佐川ですよ。ほら、隣のクラスの!」と言う。隣りって?
「東北学院榴ヶ岡高校の1回生ですよ。鈴木さんと同期です。いやー、懐かしい。54年ぶりですね!」。
驚いた。54年ぶりに同級生に会ったんだ。
それに、彼は同窓会には今まで一度も出てないという。高校を卒業して54年ぶりなんだ。
「よく分かったね」と言ったら、「時々、テレビや新聞で見てましたから」。
「今、函館にいるの?」。
違った。岩手県にいるという。東京に用事があって、その帰り道に寄ったらしい。
でも、随分、遠回りだ。そうか。「高校時代を思い出して、来たんだろう」と言った。図星らしい。
高校の修学旅行は北海道だった。仙台から汽車で青森に来て、青函連絡船で函館に来て、函館山に登り、トラピスト修道院に行き、大沼に行き、そこから札幌に行ったんだ。懐かしい。
「あれからどうしたの?」と卒業後のことを聞いた。
岩手に帰り、教師をやり、今は、辞めて、悠々自適の身だという。
そうか。「僕は卒業式にも出れなかったしな」…と思い出した。
「そうですね。鈴木さんは卒業間際に先生を殴って退学になり、それから随分と苦労されたんですね」と言う。事情を知っているんだ。
積もる話をして、別れた。
それにしても、いろんな出会いがあるもんだ。この函館では…。
と思いながら函館を後にし、飛行機で東京に帰ったのでした。
高橋夫妻、ありがとうございました。8月2日の生誕祭で又、会いましょう。
⑭俊夫さんからもらった写真です。俊夫さんが奥さん(左うしろ)と結婚する時、仙台に来て、おばさんたちに紹介した時だそうです。(左から)函館のおばさん(俊夫さんのお母さん)。私の母。東京のおばさん。右うしろは私ですね。大学院の時でしょうか。タートルネックなんか着ています。痩せてたから似合います。今はデブだから、とても着れません。
㉜朝賀昭さんと。田中角栄の最後の秘書です。この人についての本も出ています。「初めまして」と挨拶したら、「鈴木さん、久しぶり」と言われました。右派学生運動を一緒にやった同志でした。今度、ゆっくり話を聞かせてもらいたいですね。