9日間で4回だった。「偲ぶ会」が。悲しいし、残念だ。やり切れない。
10月18日(金)は野村秋介さん追悼20年の「群青忌」が四谷区民ホールで行われた。先週のHPで詳しく報告した。
10月20日(日)は、野村さんの墓前祭・法要が伊勢原の浄発願寺で行われた。「群青忌」は5年に1度開催されるが、墓前祭・法要は毎年、10月20日に行われている。
10月23日(水)は今野東さん(民主党・前参院議員)のお別れ会が早稲田奉仕園で行われた。仙台でアナウンサーをやっていて、議員に当選。「東北弁による落語」など、ユニークなことをやっていたし、世界の難民救済活動も積極的にやっていた。
そして、10月27日(日)は、元「楯の会」初代学生長・持丸博氏の偲ぶ会だった。
元「楯の会」の人や、当時、右派学生運動をしていた人などが大勢集まった。
懐かしい人もいるし、会っても初めは分からない人もいる。40年ぶりに会う人もいた。
又、国会議員や都議会議員なども多く来ていた。持丸博氏本人というよりは、奥さんや息子さん、娘さんを通じて知った人も多いようだ。
持丸博氏は、本名は松浦博だ。結婚して姓が変わった。でも昔の仲間たちと連絡する時は持丸博で通していた。
奥さんの松浦芳子さんは杉並区議会議員で、活発に活動をしている。
杉並は左翼もいるし、右翼もいる。あらゆる党派がいる。共産党、社民党、緑の党。そして元・中核派にいた人もいる。杉並区議会は、「中核派から『楯の会』までいる!」と言われている。国会よりも幅が広い。たいしたものだ。
そこで、松浦芳子さんは頑張っている。
昔、「生長の家」の学生運動で鍛えたから、パワーはあるし、運動のノウハウはしっかり持っている。
子供は4人。皆、成人している。二男は国政に出たが、善戦空しく敗れた。
しかし、人望はあるし、男前だ。もう「追っかけ」のファンもいるくらいだ。
街を歩いていて、「よく見てるよ!」「頑張って!」と肩を叩かれたり、握手を求められたりする。
「テレビでよく見てるよ」と言われても、選挙の時だし、あまり映ってない。
ハンマー投げの室伏選手に顔が似ているので、「それで間違われるんですよ」と本人は言っていた。でも、室伏に間違われて、女性ファンも追っかけをしてるのだろうか。
ともかく、人を惹きつける魅力がある。近いうちに国政で活躍するだろう。
二女は外務省に勤め、中山恭子さんの下で拉致問題の仕事をした。
中山さんもその「偲ぶ会」に駆け付けて、「こんなに熱心で有能な人はいなかった」と絶讃していた。
又、韓国に行き、そこの大使館詰めをやった。当時、韓国にいた共同通信社の青木理さんともよく会っていた。「鈴木さんの話題がよく出てました」と言ってた。
ともかく、優秀な子供たちだ。でも、こんな優秀な子供たちが産まれるにあたっては、ある人の力があったのだ。
この「偲ぶ会」では、黙祷に続き、持丸博氏の学生時代の映像が紹介される。
テレビで日学同(日本学生同盟)の活動が紹介された。その映像だ。
大学はどこも左翼ばかりだった。その中で、日学同は、左翼学生に立ち向かう。論争を吹っかけ、時には左翼に殴られながらも闘う。勇気がある。
斉藤英俊氏、宮崎正弘氏がいる。森田必勝氏もいる。阿部勉氏もいる。そして持丸博氏もいる。又、日学同の人たちが自衛隊に体験入隊した時の写真もある。
斉藤、持丸、宮崎氏らを中心に日学同が出来、早稲田を初めとした大学で活動を始めた。機関紙「日本学生新聞」を作り、持丸氏はその編集長だった。
10月27日の「偲ぶ会」では、その頃の仲間たちが思い出話をする。
「皆より老けて見えたので、“爺さん”と呼ばれてました」。何人もがそう「証言」する。
若松孝二監督の映画「11.25自決の日=三島由紀夫と若者たち」でも、「持丸役」の人は、老けた感じだった。(実は、三島役の井浦新さんと実年齢は、あまり変わらないようだった)。
私が若松監督に何度か言ってたからだろう。「皆に“爺さん”と呼ばれてましたよ」と。
「偲ぶ会」で、皆が“爺さん、爺さん”と言うもんだから、私も一言いった。
「確かに爺さんと言ってたが、それは老けてたからではない。学問・教養のレベルが我々とは余りに違っていたので、悔し紛れに、“爺さん”と呼んだのだ」と。
これは本当だ。だって、学問のレベルが違う。早大には、全国から優秀な学生や、個性的な学生が大勢集まって来ていた。地方では「神童」と呼ばれ、必死に受験勉強をして、難関を突破して入ったきた学生たちだ。
でも、その中にあっても、持丸氏は一人、抜きん出ていた。
前にも書いたと思うが、高校時代は、学校ではトップだった。それと同時に、高校生なのに、もう「水戸学」を学んでいた。
水戸学の大家・名越時正さんの家に下宿し、英才教育を受ける。名越先生は、平泉澄・田中卓先生たちの日本学協会に属していた。
高校生なのに、そうした大先生にも会い、家では毎日、マンツーマンでの英才教育を受ける。漢文の素読を初め、日本、中国、世界の古典を読み、勉強する。
だから、大学1年で入学した時に、もうすでに大思想家であり、大学者だった。大人(たいじん)だった。
同じ大学生を見ても、持丸氏にしたら、「子供だな」と思ったことだろう。
だって、大学1年生なのに、持丸氏は文章は「旧仮名遣い」(彼に言わせれば「歴史的仮名遣い」)で書いている。そんな大学生なんて、他にいない。その後43年経っても、いない。
学問的レベル・学識・教養のレベルが余りに違うのだ。それで、皆が、悔し紛れに“爺さん”と呼んだのだ。
聞いたら、私と同じ年だった。昭和18年生まれだ。
私は仙台から上京したばかりで、全く何も分からない。持丸氏から見たら、(同じ年なのに)「子供」と見えたことだろう。
その大人的風貌と、学識を買われ、日学同の新聞を作り、評価も高かった。
さらに、三島由紀夫、林房雄、福田恆存、村松剛…といった当時の民族派・文化人、学者の折衝に当たった。日学同の集会や勉強会に来てもらったのだ。
その先生たちも、持丸氏の学識には驚いて、「今時、こんな学生がいるのか」と思い、その持丸氏を信じて、来てくれた。
又、三島由紀夫が「楯の会」を作る時も、ぜひにと三島から請われて入った。
「楯の会」が『平凡パンチ』などで大々的に紹介されると、ドッと全国から申込みが来た。その一人一人に当たって、入れるかどうかを決める。
その作業を全て、三島は持丸氏に任せた。
『論争ジャーナル』という、左翼に対抗する月刊誌があって、三島はよく書いていた。この編集部の人々も「楯の会」だった。
その『論争ジャーナル』が、「楯の会」の事務所になっていた。
入会希望者は、ここに来て、持丸氏の面接を受ける。一人一人、近くの喫茶店に誘い、そこで審査をした。
だから、「楯の会」の人間を集め、実質的な内容を作ったのは持丸氏だ。そうも言える。
私も持丸氏から、もっともっと学び、教えてもらいたかった。でも同じ年だし、同じ学生だ。「教えて下さい」というのも、ちょっと恥ずかしい。
ただ、本を紹介されたり、一度、大阪・千早城での合宿に誘われて、参加した。
学生や高校・大学の先生が多い。そこに、平泉澄、田中卓、所功さんなどが出ている。朝から晩まで、勉強・勉強だ。
2泊3日だと思うが、とても勉強になった。この時は、森田必勝氏も行った。
「日本学協会の合宿に行ったんだから、生学連の合宿にも出てよ」と持丸氏を誘った。生学連は宗教団体「生長の家」の学生部だ。
しかし、かなり〈政治〉路線を走っていた。
創始者・総裁の谷口雅春先生は、「今、日本が危篤だ。この日本を救わなくてはならない」と言っていた。
そして、宗教的な本とは別に、「愛国書」も沢山出していた。今でも題名を憶えている。『限りなく日本を愛す』『日本を築くもの』『われら日本人として』…などだ。「生長の家」だけでなく、一般の人も読んでいた。早稲田でも右派学生は皆、読んでいた。
だから、持丸氏も森田氏も斉藤氏も、生学連の合宿に来てくれた。「愛国心の話が聞けるから楽しみだ」と。
でも、それだけではない。お祈りの時間もあるし、神様の話もある。「愛行」といって「労働」の時間もある。でも、ちゃんと出ていた。
それに、「生学連」は女の子が多い。これは珍しいし、驚きだったようだ。
早稲田では女の子はいない。女子学生も少ないが、右翼に関心を持つ人なんて誰もいない。日学同にも、女子は一人もいなかった。
その点、生学連は多い。親が「生長の家」で、その子供が入るからだ。生学連の合宿だって、三分の一か、半分くらいが女子だ。
それに、「生長の家」の集まりでよく本を読んでるから、皆、愛国者だ。
さらに、山本周五郎の『日本婦道記』などを読んでいる。
又、大学ではサークルを作ったり、自治会選挙に出て、左翼学生とも闘っている。
生学連としては、勿論、早大、慶大、神奈川大などでも自治会選挙にアタックしていた。そこが左翼の拠点だったから、そこから崩そうと思ったのだ。
長崎大学などでは、左翼の強い中で、よく闘い、自治会を取った。
それに、全国で続いた。女子も頑張った。それに女子大、女子短大などは、あまり自治会選挙に出たがらない。生学連の女性が1人か2人でもいたら、「立候補しろ!」と言われた。それで結構、自治会を取ったところがある。
それで全国で20大学近くを取り、「民族派全学連を創ろう!」という機運も上がったのだ。
そんな意識があり、闘う女性が多く集まっていた。それに若くて、かわいい。
持丸氏らも、そんな女子大生を見たことがなかったので、夢うつつだった。
「あの子、かわいいし、ハキハキしている」「できたら紹介してほしい」と持丸氏に言われて、紹介したのが松浦芳子さんだ。
持丸氏はその頃、落合にある「ゆたか荘」に住んでいた。交際が続き、後に結婚することになる。
10月27日の「偲ぶ会」の時も、「持丸氏と芳子さんを結びつけた恩人・鈴木さんからも一言」と私は紹介された。
外務省に勤めたり、国政選挙に出たりする優秀な子供4人は、私がいたからこそだ。中山恭子さんにも、「偉かったんですね、鈴木さんは」と言われた。
松浦芳子さんの家は、女性姉妹ばかりだった。
それで、親は、「松浦姓」を残したくて、持丸氏に婿になってもらった。持丸博氏は「松浦博」になった。
でも、友人たちはずっと「持丸博」と呼んでいた。
不思議なことに、「楯の会」一期生には、結婚して婿になり、姓が変わった人が多い。
持丸氏の他に、阿部勉、本多清らがいる。10人ほどの一期生の中に半分近くがいる。
まだ結婚しなくても、「結婚したら、婿になります」と三島に言ってた人もいる。
だから三島は感じたのだ。「自分の周りだって、こんなにいる。子供は女性だけの家がかなりある。だから、結婚したら、婿になってもらおうとしている」と。
これは天皇家だって言える。今は男のお子さんが2人おられて万々歳だが、いつか、女のお子さんだけになる時が来るかもしれないと。
これは三島の凄いところだ。その頃、誰も考えていない。「将来、女性天皇ということもあるだろう」と考えた。
そして、三島の改憲試案の中には、そう書いている。「男子に限るものではない」と。
又、自衛隊を国軍にしろ、と言っていたが、徴兵制には反対していた。
その理由だが、「国を守るのは国民の名誉ある権利である。徴兵制にしたら、それは“汚れた義務”になる」と。これは明解だ。
話を戻す。10月27日の「偲ぶ会」だ。
私は、持丸氏がなぜ「爺さん」と呼ばれていたかを話した。と同時に、三島と『論争ジャーナル』の対立について話し、そのあおりで持丸氏も「楯の会」を辞めた、という話をした。
持丸氏が辞めた後、1年も経たないうちに、三島事件が起こる。
「持丸がいたら…」と皆に言われて、本人も悩んだ。厳しくも辛い43年だったろう。
何も持丸氏の責任ではない。でも、「持丸氏が「楯の会」の学生長を続けていたら、あんなことにはならなかっただろう」と言う人は多い。
〈三島事件〉を評価し、支持しながらも、でも「あんな天才を死なせてしまった。将来ある25才の青年を死なせてしまった」。という悔しさもある。それを持丸氏にぶつける人も多くいたのだ。
この「偲ぶ会」には、昔の仲間たちが多く来た。
持丸氏と対談し、本を作った佐藤松男氏とも会った。
松男氏は福田恆存門下生だ。2人で会い、三島と福田恆存について語り合ったのだ。じゃ、『紙の爆弾』で、松男氏と対談してみよう。
私も、持丸氏のことをもっともっと聞きたい。
さらに、この日は、鈴木亜繪美さんも来ていた。「楯の会」の会員たちを訊ね歩いて、貴重な本を書いた人だ。『火群(ほむら)のゆくへ』(柏艪舎)だ。
43年前の事件によって、100人の「楯の会」の会員たちは、大きな船からポンと荒波逆巻く大海に投げ出された。
「なぜ、声をかけてくれなかったのか」「なぜ連れて行ってくれなかったのか」と三島を恨んだ。その生々しい声が出ている。
中には、「毎年、11月25日には、1人ずつ自決しよう!」と言い出す人もいる。
悲惨だ。若い時に、余りにも偉大な人に出会うのも不幸だと思った。「神」を見た者たちの幸運と不幸がある。
その著者・鈴木亜繪美さんを松浦芳子さんや、息子さんたちに紹介した。亜繪美さんに、「この人たちを取材して、増補版を作ったらいいでしょう」と言った。
そうだ。阿部勉氏のことも書いてほしい。又、角館にお墓参りに行かなくちゃ、と思った。
阿部氏は学生時代は、冗談ばかり言って、コーラばかり飲んでいた。でも、彼もとてつもなく優秀な男だった。文章もうまかった。生き方も破天荒だったし、ずっと生きていたら太宰治や坂口安吾になれたと思う。残念だ。
そうだ。「偲ぶ会」で、楯の会の後輩が言っていた。
「持丸さんは、とても優秀な人で、あのまま評論活動をしていたら、ここにいる西尾幹二さんぐらいにはなれたでしょう」。
目の前に西尾さんがいる。まさか、「西尾さんを超える評論家になれたでしょう」とは言えない。「西尾さんには及ばないでしょうが…」と、勝手に(持丸氏を)謙遜する訳にもいかない。
私は、持丸氏に、最後まで、「本を書け」と言っていた。三島や「楯の会」や自衛隊に遠慮することはない。
今さら、どこに遠慮するんだ。全てを書いたらいい。三島は尊敬していたが、三島論では大いに違うところもあった。それを書いたからといって、三島批判にはならない。
そう言った。そして実際、持丸氏は書き始めたが、筆が進まなかった。
もっともっと調べて。それに、いろんな所に迷惑がかからないようにしなくては…。と配慮していた。完璧主義者なのだ。
書きかけの原稿や日記などは沢山あるようだし、奥さん、息子さんにまとめてもらいたい。「偲ぶ会」では、そんなことを言った。
持丸氏は亡くなったが、立派な子供が4人もいる。楽しみだったろう。
「持丸は何でも知っていて教えてくれましたよ」と奥さんは言っていた。
仕事の都合で別居していた持丸氏に、奥さんはよく電話をして聞いていた。自分がやっている政治の話、思想的な話など、「何でも教えてくれた」という。
それだけ、大学者、大思想家だったんだ。大学1年の時から。
「昨日も、分からないことがあったので、電話しようと思い、受話器を取ったんです。でも、あっ、死んじゃったのかと思って…」と言う。
でも4人の子供の中に持丸氏は生きている。そんな気がした。
5時、「読書ゼミ」。今回は、岡本茂樹さんの『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)を読んだ。
これは、考えさせられた。岡本さんは、立命館大学教授。現在、刑務所での累犯受刑者の更正支援に関わっている。この人とはぜひ、直接会って話を聞いてみたい。『紙爆』で頼もうかな。
終わって、いつもなら生徒と食事会だが、この日は急いで車で中野ゼロホールへ。ここの西館学習室A・Bで行われていた。午後6時半から始まっていた。私は遅れて7時半から参加した。
何とも衝撃的・刺激的なタイトルだ。そして凄いパネラーだ。
〈緊急シンポジウム「行動する保守運動の矜持とは何なのか?」〉
登壇者:米田隆司(在日特権を許さない市民の会広報局長)
西村修平(主権回復を目指す会代表)
金子吉晴(日本の自存自衛を取り戻す会)
荒井泉(維新政党・新風東京都本部練馬区支部長)
司会:槙泰智(政経調査会代表)
凄いシンポジウムだ。
司会をやる槙氏から数日前に電話があった。「在特会や主権回復、新風などを集めてシンポジウムをやります。鈴木さんも聞きに来ませんか。発言もしてもらいます。きっと、凄いブーイングでしょうが…」と。
面白いと思った。ブーイング結構だ。多数相手に論争したって私なんか、負けるだろう。
ただ、本当のところ、彼らが何を考えているか直接、聞きたい。又、このままでは「新しい法律を作れ!」「警察はデモを認めるな!」といった方向に行く。そうなっては危険だ。あくまで「デモにはデモ」「言論には言論」でやるべきだ。
警察の力を大きくして、「どのデモを認めるか」を警察に任せてはマズイ。デモ・集会を取り締まる法律が出来たら、さらに危ない。私は反対だ。
そのためにも、こうして「話し合いの場」を持つというのは大賛成だ。だから、彼らが今、何を思い、どんな危機感を持っているのか、聞いてみたいと思って、行った。
会場に入るなり、いきなり殴られるか。「ゴキブリ!帰れ!」と追い返されるか。心配していたが、スンナリ入れた。槙氏が言ってくれたのだろう。
驚いたことに皆、冷静だ。「朝鮮人、首吊れ、毒のめ!」なんて昔は行ったが、今は全く言ってないと言う。「在特会も変わった」と本人たちが言う。
これは知らなかった。いいことだ。登壇者は4人の予定だったが、西村修平氏は欠席でした。
8時頃、シンポジウムは終わり。それから会場の皆と、質疑応答。「その前に鈴木さんから一言」と槙氏に言われ、大体、今書いてるようなことを喋った。「考えの違いは違いとして、こうして冷静に論議できる場が出来るということは、素晴らしい!」と。
それにしても勿体ない。街頭で荒れ狂ったデモしか皆、見てないし、こういう冷静な姿は見た人はいない。だから、もっと多くの人たちに、この〈話し合い〉を見せるべきだ、と言いました。私への批判もありましたが、皆で、「行動する保守」を見直していました。これらの人々を一堂に集め、討論させた槙氏も大変だったと思います。ご苦労さまでした。
終わって、槙氏たちと近くの居酒屋で飲みました。
〈弾圧に抗した11年!
美世志会とともに当たり前の職場活動を守り抜く11.1大集会〉
本当に酷いえん罪だ。そして、「JR東労組は革マルだ!」と決めつけて弾圧。普通なら、それで組合は潰れている。しかし弾圧を跳ね返し、今は、労組もさらに人が増えている。
主催者挨拶。連帯挨拶(佐藤優さん、植草一秀さん)。そして、逮捕され、弾圧された人々のパネルディスカッション。中には心が揺れた人もいたし、取り調べの恐ろしさを生々しく語る人もいる。
しかし、仲間の労働者の連帯、支援で闘い抜くことが出来た。感動的なシンポジウムだった。
それから、弁護士の話。この日の来賓が紹介され、私も紹介された。一水会代表の木村三浩氏も来ていた。その後、集会アピール採択。閉会。団結ガンバロー。
終わってから、銀座の中華料理店の打ち上げに出ました。乾杯の後、挨拶させられました。多くの人たちと会いました。
〈「週刊金曜日」創刊20周年大集会。
=読者のみなさんありがとう!=〉
会場は超満員でした。1500円の前売りは全て売れ、当日券(2000円)はない。入れない人もいたのでしょう。私は、何回か『金曜日』に書いてるので、赤岩さんが席を取ってくれました。一番前の一番いい席です。
この日の発言者は、雨宮処凛、石坂啓、宇都宮健児、佐高信、田中優子、中島岳志、本多勝一の編集委員の皆さん。そして、パフォーマンスの松元ヒロさん。豪華な集会でした。私も喋らされました。私は、佐高信さんとの対談集を金曜日から出しているので、全国から来ていた多くの人たちと話をしました。
終わって、打ち上げにも出ました。その後、読書会やら、佐高さんたちとの集まりにも出ました。
⑬10月29日(火)6時半より、クレヨンハウスで。福島みずほさんの「議員生活15周年の集い」。私も挨拶させられました。
みずほさんは会うたびに「鈴木さんの考えは、今は、ほとんど社民党よ」と、言われてます。誉められてます。
10年間の党首生活ご苦労さまでした。これからは自由に、いろんなことに挑戦出来るでしょう。「2人で新党を作りましょう」なんて私は口走ってしまいました。それに煽られたのか、閉会の挨拶の時は、みずほさん、「総理大臣を目指します」と言ってました。
⑭落合恵子さんと。知らなかったんですが、この会場(クレヨンハウス)は落合さんがやってるんですね。2階では子供向けの絵本などが売られてます。
ここは、パーティ会場です。「どうしてクレヨンですか?」と聞きました。まさか、「クレヨンしんちゃんからとったの?」とは聞けないので。
そうしたら、「子供がまず手に取って、お絵描きするのはクレヨンでしょう。だから」と言ってました。すみません。カタログハウスやマガジンハウスとの違いも分かりませんでした。これでちゃんと理解出来ました。
⑱元法相の小川敏夫さんと。前に文化放送で話をしました。小川さんは最近、『指揮権発動=検察の正義は失われた=』(朝日新聞出版)を出した。衝撃的な本です。小川さんに送ってもらったので礼を言いました。「とてもいい本でした。ありがとうございました」と。
小川さんは元法務大臣だ。小沢一郎氏「無罪」が確定するまで水面下で何が起きていたのか。その「全て」を書いている。
⑳10月25日(金)、「経営塾」の講演会。寺島実郎さんの話を聞きました。アナリストとして日本の政治、経済を斬る。とても勉強になりました。
早稲田の政経で、私より5才ほど若い。政経を出て三井物産に入り、アナリストになる。優秀だったんだ。学生時代から、いろんな社会問題や公害などに関心があって調査してたといいます。
㉓このキッド・アイラック・アート・ホールは実は窪島さんが作った。地下1階は「ブックカフェ槐多(かいた)」。画家の村山槐多からとった。
終わって、このカフェでコーヒーを飲みました。左は、窪島さんの蔵書です。高橋和巳や、埴谷雄高の『死霊』などがありました。
㉔10月26日(土)午後2時、本郷三丁目のドリーム・インスティテュート研修スタジオ。ニコンサロンでの慰安婦写真展が、脅迫に遭い、入場者は厳重な検査をされた。その後、中止。その写真を撮った安世鴻さんと。
安さんの著書『重重』の書評を私は『週刊金曜日』でやりました。