「伊豆大島、集落消えた」と産経新聞(10月17日)は報じていた。「土石流17人死亡 43人不明」とも報じていた。
さらに、20日(日)の朝刊では、「死者27人 不明21人」「行政不作為、被害拡大か」と出ていた。
これほど酷い災害だとは思わなかった。新聞、テレビを見て、驚いた。
16日夜に記者会見した川島理史・大島町長は、避難勧告を出さなかったことについて、「避難することで人的被害が拡大すると判断したからだ」と言っていた。
もの凄い豪雨、土石流、そして木々もなぎ倒される状況の中、外に出たら、かえって危ないと判断したのだろう。
水に流されたり、倒れた木の下敷きになるかもしれない。だから、「家にいた方がいい」と町長は判断した。
でも、その家も危なかったのだ。家々は破壊され、流された。そして、集落が消えた。
災害については町長は専門家ではない。それなのに、個人の判断で、「避難勧告しない」なんて決めていいのだろうか。
それに、この日、町長は大島にはいなかった。島根県で開かれていた会議に出席していて、15日から不在。16日午前3時過ぎまで連絡がとれなかったという。
こんなことがあるんだろうか。
〈副町長も出張で島を離れており、町長は、「台風が来ると知りながら島を離れたことの批判は受け入れる」と述べた〉
(産経新聞。10月17日)
責任は重大だ。自らの「判断」で避難勧告は出さなかった、とはっきり言ったが、同時に、こうも言っている。
「想定が甘かった。これまでの対策や当日の対応が適切だったか検証したい」
これも甘いだろう。こんな状況で、放っておかれ災害に遭い、犠牲になった大島の人々が余りにかわいそうだ。
被害者の救助・不明者の捜索についても町長たちが何らできることはない。自衛隊に頼るしかない。
自衛隊も大変だ。東日本大震災の時もそうだが、こんな時、一番頼りになるのは自衛隊だ。議員や町長などは全く役に立たない。人々の命を守ることが出来ない。
それなのに、こんな人々に、イザという時の「判断」を任せている。危ない話だ。
大島では、職員からの連絡で、「家が次々、崩壊している」「流されている」という悲鳴を聞きながら、「でも、外に出たら、かえって危ないだろう」と、町長は(島根県にいて)個人的に判断し、避難勧告しなかった。
自衛隊や警察にしても、危険を勧告していたし、「早く手を打ってくれれば…」と思ったはずだ。
こんな時、自衛隊や警察の判断で、避難させてもよかったのではないか。あるいは町長に命令するとか。
少なくとも、町長の個人的判断だけに、人々の命を委ねるのは危険だ。これからは、そういった問題が論議されるだろう。
今、そこにある危機だ。憲法改正問題などよりも早急に取り組むべき問題だ。
そんな時に、個人的な報告をするなんて気が引けるし、申し訳ない気もするが…。
12日(土)、13日(日)は札幌に。14日(月)は仙台に行き、日帰り。
15日(火)は姫路に行く。「台風が来るから、早く帰った方がいいよ」と言われ、夕方5時前の新幹線で帰った。
慌ただしく、飛び回っていた4日間だった。
前にもあったな。台風の中、静岡に行き、新潟の新発田に行った。
9月15日(日)、16日(月)だった。もう1ヶ月前か。
それに前日の9月14日(土)も、学院高校の同窓会だった。東京にいる人だけの同窓会だったが。
今回、10月14日(月)は「第1期生会」だ。
今からもう54年も前だ。東北学院榴ヶ岡高校に私らは入学した。
1クラス45人。それが3クラスで、全員で135人だ。それが輝ける1期生だ。
54年経って、亡くなった人が10ほどいる。どうしても住所が分からず連絡が取れない人もいる。「それに、在学中に退学になった人や、途中で辞めた人が10人ほどいる」という。
自分で辞めたというよりは、ほとんどが「退学処分」だ。それが全体の1割近くいる。多い。
それも、たいした理由ではない。「タバコを吸った」とか、「町で、女の子と話をした」とか。そんなことで退学にされている。かわいそうだ。
「おめも、その中に入ってるはずだった。本当なら、ここにいねがったはずだ」と皆に言われた。
その通りだ。申し訳ない。だって、先生を殴ったんだ。
タバコを吸ったとか、服装の違反があったとか、女の子と話をした…なんていう事件よりも、ずっとずっと重大だ。重大犯罪だ。
実際、一度は退学になった。でも、3年の卒業間際だった。単位は全て取ってある。だから、転校も出来ず、放っぽり出された。
あの時のことを思うと、「もうちょっとで卒業じゃないか、何で我慢出来なかったんだ。バカめ!」と自分で自分を怒鳴りたい。
自分の中に、「狂暴な狼」がいるんだ。怖い話だ。
退学になった時点で、もう破れかぶれだった。
もう、高校中退でいいよ! チンピラでもヤクザでもなってやる!と思っていた。自暴自棄だ。
親にも迷惑をかけたし、大変だった。
札幌に嫁いでいた姉が急遽、帰ってきて、励ましてくれた。夫や2人の子供を放っぽらかして、「愚かな弟」のために奔走してくれたのだ。
そして毎日、教会に通い、「懺悔の生活」を続けた。
半年後、奇跡的に退学が撤回されて、学校は「1人だけの卒業式」をやってくれた。
ミッションスクールに3年間通い、それが私の〈奇蹟〉だった。
イエスさまのおかげです。その頃の、かわいそうな話は、『失敗の愛国心』(イーストプレス)に詳しく書いている。
私は、1期生なんだけど、本当は皆と一緒に卒業したわけではない。2期生にも入れてもらえない。
でも、こうして同窓会には呼んでもらえる。
仙台では、40名以上が集まった。先生もいる。
英語の須田先生にも会った。「先生には、よくチョークをぶつけられました」と言ったら、「そんなことあったっけ」と笑い飛ばされた。
でも、皆、憶えている。「会ったら、お礼参りしなくっちゃ」と言ってる人もいたが、会うと、ただただ懐かしい。昔の恨みも消えている。それが、キリスト教の愛ですよ。
須田先生は、よくチョークをなげていた。銭形平次みたいだな。
1時間の内に、何人にも投げつけていた。かなり多くのチョークを持ってきてたのだろう。
あるいは、「これは、板書用のチョーク」「これは、小さくなったから、生徒に投げるチョーク」と分けていたのだろうか。
今度会ったら聞いてみたい。あっ、『紙の爆弾』で対談してもいいかな。
しかし、うまかったな、チョーク投げが。正確に当たっていた。家で特訓してたんだろうか。
あるいは、古武道の「手裏剣術」の道場に通っていたりして…。
わたしもよく、ぶつけられた。ある時、「来るな」と思ったので、瞬間的によけた。
そしたら、後ろの人間に当たった。
普通なら、「ゴメン、ゴメン」「誤爆しちゃって」と謝る。アメリカだって謝る。
ところが須田先生は謝らない。それどころか、ツカツカと私に近づいて来て、厚い出席簿でいきなり殴る。
「お前が悪い! お前がよけるから、関係のない人間が被害をこうむるじゃないか。バカ!」と。
理不尽な話だ。余りに、メチャクチャな論理で、こっちは怒る気もしなかった。
美術の小山先生にも久しぶりに会った。ある時、「本のカバーを作りなさい」という。
こんなことは初めてだ。「オラは漱石の『坊ちゃん』の表紙を作るか」「オラは芥川の『河童』だ」と。各々、考えて、取りかかる。
私は、『緑のハインリヒ』の表紙を作った。「これは、おしゃれでいいですね。センスがいい」と先生は褒めてくれた。あのまま画家か装幀家になってもよかったな、と思った。
その話をしたら、「そうでしたっけ」と、あまり憶えてない。
ところが、他の生徒が、「私も本の表紙を作って褒められた」と言ってる人がいた。
やっぱり、あったんだ。
社会の赤沢昭三先生にも卒業後、初めて会った。「名前から分かるように私は昭和3年生まれです」と言う。
初めて知った。「昭三」という人は、皆、昭和3年生まれなのか。じゃ、今は85才なのか。驚いた。
一方、化学の脇田先生は、「大学を出たばかりの若造で、皆さんを教えてました」と言う。じゃ、私らと5才位しか違わなかったのか。でも先生と生徒じゃ、天と地の差だ。
聖書の出村先生とも久しぶり話しました。そうだ。この会で、食事をする前に、先生が、お祈りをする。
いいですね。祈りに始まり祈りに終わる、高校時代を思い出した。
それにしては、私らは、荒っぽかったし、手負いの獣だった。先生たちも大変だったでしょう。
会が終わってから、「んだば、国分町さ、飲みに行ぐが?」と誘われた。同級生がやっているキャバクラもある。「んだば、あっこさ行くべ」となった。
「いやオラは帰る」「何だ、水くせーな」となったけど、次の日、15日(火)は姫路に行く用事がある。
「仕事で姫路に行ぐなだ、朝一番で」と言って、皆を振りほどいて、駅に行きました。
最終で帰って、朝まで仕事して、早朝の新幹線で姫路に行きました。
同級生には「仕事で」と言ったけど、本当は違う。姫路城とけんか祭りを見に行ったのだ。元刑事の飛松五男さんが誘ってくれたのだ。
食事から、桟敷代から全て、お世話になり、本当にありがとうございました。とても感動的でした。これから、原稿を書く上でも、大いに役立つでしょう。
その意味では、〈遊び〉ですが、でも、〈仕事〉の糧になると思ってます。
そうだ。今週のHPは、12(土)の札幌について書こうと思ってたんだ。
でも、「マガジン9」の連載で、かなり詳しく長く書いた。だから興味のある人は、そっちを見てほしい。
まあ、ここでも、少し書こう。
札幌時計台には2階にホールがあって、音楽会や講演会に貸している。素晴らしいホールだ。人気があって、予約が一杯だ。そこで、「鈴木邦男シンポジウムin札幌時計台」をやっている。
早く予約を取らないとならないので、かなり、先まで予約を取っている。来年の5月まで決まっている。
今回は4回目だ。今まで、鈴木宗男さん、中島岳志さん、山口二郎さん、そして今回が藤野彰さんだ。
いつもタイムリーな話だが、その中でも、今回が一番タイムリーなテーマだと思った。
だって、「異質な隣人・中国といかに向きあうか」だ。
これは今、日本にとって一番重要な問題だ。
「嫌いだ」「付き合うな」「こんな国とは断交しろ!」という声が多く出ている。
しかし、それで済むことではない。
本屋では、「中国は崩壊する」「中国のものは食べるな」「こんな国とは話し合い出来ない」といった本が、ワンサカ出ている。
テレビの討論会でも、そんな激しいことを言う人が多い。新聞、週刊誌でも、そんなことを言ってる人が多い。
そんな暴言を吐くことで、何やら、自分が〈強く〉なつたと思っているのだろう。
昔、日本がアメリカと戦争する直前、こんな標語があった。
「英米を 消して 明るい世界地図」。
アメリカやイギリスを消しちゃうと、世界は明るくなるという。早く、やっつけてしまえというのだ。
でも、地図上で、塗りつぶすことは出来ても、国そのものをつぶすことなんか出来ない。
そんな勇ましいことを言ってたら、日本の方が負けちゃった。日本の方が、あやうく地理上から消えるとこだった。
今、「英・米」を「中国・韓国」に置き換えたような感情的排外主義が罷り通っている。
そんなことでは、何らの解決にもならない。
韓国がいくら嫌でも、日本列島は、逃げ出すことも出来ない。中国・韓国に移ってもらうことも出来ない。
だったら共存するしかない。共存の道を探すしかない。
それに、日本では皆、「ムード」だけで「中国は嫌いだ」と言ってる。
藤野彰さんは言う。中国を好きでも、嫌いでもいい。しかし、まず「知って」からだ、と。
藤野さんは元・読売新聞の中国総局長(計2回)だ。中国は長い。
それに学生時代から中国語を勉強し、喋るのも、読むのも堪能だ。
今は新聞社を辞め、北海道大学大学院の教授だ。「現代中国論」を教えている。
北大には中国人の留学生が多いが、そのうち何十人も藤野さんの授業を取っている。
そして、「中国のことがよく分かった」と言う。これは驚きだ。
今、中国では、天安門のことは話せないし、中国共産党の批判など一切出来ないし、そんなことを耳にすることもない。
ところが、北大に留学して、初めて天安門や中国共産党のことを知る。さらにそれを知って、中国に帰る。又、中国政府もそのことを許している。
又、中国共産党といっても決して一枚岩ではないと藤野さんは言う。
右から左まである。「毛沢東復権」から「多党制支持」まであるという。考え方、生活レベル、いろんな点で差がある。
又、政治的・歴史的には「反日」的なことを言っても、文化、音楽、映画、ゲームなどの点では「親日」的な面も多い。これはキチンと見る必要がある。
「反日的な人」と、「親日的な人」がいるのではない。一人の中に、「反日的な部分」と「親日的な部分」があるのだという。
そこを知った上で、付き合う必要がある、と言う。
藤野さんは最近、『「嫌中」時代の中国論』(柏艪舎)という本を出した。この本も実にタイムリーだ。
本屋に行っても、テレビを見ても、中国の悪口を大声で言う人ばかりだ。
新聞、週刊誌もそうだ。中国を叩き、悪口を言えば、売れるからだ。
そして、自分は「愛国者」だと思われる。情けない。まさに、「嫌中時代」だ。
その中にあって、知らないまま、「嫌いだ」なんて言うな、と藤野さんは言う。
北大で中国の留学生に勉強を教えるのでも、ともかく日本の実情を知ってほしいと教えている。
よく知った上で、「反日」になるのなら、それでもかまわないと言う。
この本を読んで、驚いた。私らの考えつかない、知らないことばかりだった。
これは、ぜひ、多くの人に読んでもらいたい。
そして、知った上で、中国とどう付き合うか。それを考えるべきだと言う。
時計台シンポジウムでも、その点から藤野さんに私は次々と質問した。
そして、日中の付き合いについて考えた。
そしたら、50人近くが参加した。凄い。
ともかく、懐かしかった。「主の祈り」で始まり、讃美歌、校歌をうたい、厳粛な中にも楽しい同期会でした。夜は最終の新幹線で帰りました。
あまり寝てない。東京駅発7時50分の新幹線に乗る。10時55分姫路着。姫路城と「けんか祭り」の見物だ。元刑事の飛松五男さんが誘ってくれた。ありがたい。
飛松さんを慕う若い美女2人も同行。一緒に写真を撮ろうとしたら、「会社をズル休みして来たので、アカンわ」。それで、飛松さんとの写真だけだ。
姫路城は日本で最も美しいお城だ。今は改修中で、全体に覆いがかかっている。「改修中でも、見れるんですわ」と飛松さんから前に聞いた。
改修中の城を見れるなんて、今しかない。それで、ぜひ見たいとお願いした。
それに、この日は、お神輿がぶつかり合う激しいお祭り「けんか祭り」がある。
「それも見ましょう。桟敷席を用意しますわ」と飛松さん。それに甘えて、姫路に来たのだ。
お城の覆いといっても、ビニールではない。ちゃんとした建物だ。中には、エレベーターもあるし、そこにいろんな写真、資料もある。そして、改修中の姫路城も見れる。これは凄い。
来年の春、改修は終わる。そして、この「建物」は壊される。勿体ない気もするが仕方ないのか。
外に出たら、「お菊の井戸」がある。あれっ、ここだったのか。「一枚、二枚…」とお菊が皿を数えるのは。飛び込んだ井戸は深い。
それから、城の中の庭園へ。とても綺麗だ。
「あれっ、桜が咲いている」「ウソやろう」と思ったら、本当だ。「十月桜」と書かれている。十月に咲く桜があったのか。新発見。
そして、食事。とてもおいしかったです。ごちそうさまでした、飛松さん。
それから、市の中心部に行き、「けんか祭り」を見物。多くの神輿が出て、ぶつかる。そこを、段々になった桟敷席で見る。
それも、周囲の山を削って、天然の階段、桟敷席を作っている。コロシアムのように、もの凄く贅沢な客席だ。こんな施設はちょっとない。
ただ、途中から雨が降り出した。皆、ビニールの合羽を着たり、傘を差したり。我々は、ビニールシートをかぶって、見た。
「あっ、青森のねぶたを見た時も雨やったわ」と私。あれは8月だったか。ズブ濡れになりながら、けんか祭りを見た。それだけの価値はある。
夕方、姫路駅まで出て、お茶。「今日は台風が来るんですよ。早く帰った方がいいですよ。でないと帰れなくなりますよ」と言われ、慌てて新幹線に飛び乗る。
本の帯にはこう書かれている。
〈天地創造から世界の終わりまで--。共にキリスト教徒の二人が語り尽くす。聖書をめぐるバトル対談〉
なかなか面白い本だったし、考えさせられた。私も高校はミッションスクールだったので、その話もした。「先週の土曜日は、その同窓会があって、出てきたんだ」と話をした。
終わって、いつもなら生徒と食事会なのだが、私は用事があったので、中座。タクシーで竹橋へ。
午後7時から、一水会フォーラムが始まっていた。30分ほど遅れて、参加した。如水会館14階「一橋クラブ記念東室」。講師は呉善花さん。
テーマは「今の韓国について語る」。最近も、韓国に行こうとして入国を拒否された。韓国政府から徹底的に嫌われている。
それというのも、呉さんは、韓国の今の現状を強く批判しているからだ。激しい。
私は、かなり昔に会って、話を聞いた。一貫しているし、全くブレない。勇気のある人だと思う。
終わって、近くの居酒屋で打ち上げ。
終わってから、近くで、二次会。懐かしい人々に会って、時間を忘れて、話し合った。
野村秋介さんの息子、娘さんも来ていた。その子供(野村さんの孫)も来ていた。男の子は野村んさの若い頃に似ている。私は野村さんの10代、20代の頃は知らないが、知ってる人は似てると言う。野村さんも嬉しいだろう。
愚安亭さんとは、メルマガ「マガジン9」で対談している。かつては学生運動をやり、その後、芝居をやる。
でも、昔から三島由紀夫が好きで、初版本で、集めて、全てを読破したという。とても感動的な芝居だった。
終わって、近くの居酒屋で打ち上げがあったので参加した。話し込んだ。
㉒10月13日(日)、札幌から帰って、バスで新宿に出ました。東口交番の横で、こんな危ないイベントが行われていました。
〈暗殺教室 体験入学!〉
だって。いいのかな。子供たちも、喜んで、体験入学してました。私もしました。でも、本の宣伝のようですね。
㉓新宿駅構内にも、大きく出てました。「求む! 暗殺者!」と。いいのかなー、こんなことをして。でも、松井優征の漫画『暗殺教室』のお知らせのようです。
でもでも、紛らわしい。本当に、暗殺者になろうと思って、来る人がいるんじゃないの。
㉔10月17日〈木〉、如水会館で「一水会フォーラム」が行われました。講師の呉善花(オ・ソンファ)さんです。拓殖大学国際学部教授です。テーマは、「今の韓国について語る」。分かりやすくて、勇気のあるお話でした。