丸岡修さん(元日本赤軍幹部)が八王子医療刑務所で亡くなった。5月29日(日)午前8時21分。60才だった。
翌日の新聞は、「丸岡修受刑者が死亡」「元日本赤軍、ダッカ事件実行犯」と書かれていた。どの新聞にも、「病死とみられる」と書かれている。
しかし、先週書いたように、重篤であるにもかかわらず放置され、そのせいで死亡したのだ。「週刊新潮」(6月9日号)で、支援者の1人、大谷恭子弁護士は言う。
〈丸岡さんは心臓が悪くて、04年には拡張型心筋症と診断されました。その後、病状は悪くなるばかりで刑の執行停止を求めたことは一度や二度ではありません。この4月22日にも6回目の執行停止を申し立てたのですが、刑務所には聞きいれてもらえませんでした〉
中では治療が出来ないし、専門の病院に移すように検察、法務省に要望していた。このまま釈放しろと言ってるのではない。死にそうだから外の専門病院に移し、治ったら刑務所に戻す。ごくごく当然のことを要望しただけだ。
外部の専門医も、このままでは危ないと受け入れを表明していた。一刻を争う事態だった。しかし、認められなかった。
「これは権力に見殺しにされたも同然です」と柳田健さん(拡張型心筋症の丸岡修さんに生きる途をの会)は言う。(「日刊ゲンダイ」5月31日付)。
〈柳田健氏が言う。「丸岡氏は日本赤軍の軍事部門の責任者として事件に関与しましたが、逮捕される前に考えを改め、武装闘争を否定していました。“人民のための闘争なのに、人民を人質という盾にするのは良くない”と考えるようになったのです。93年頃東京拘置所で肺炎にかかったのに、ただのカゼと誤診されて肺炎をこじらせ、そのせいで拡張型心筋症になりました。我々は何度も専門の病院に移すよう東京高検に申立書を提出し…〉
6度目の申し立ても認められず、死を迎えた。だから、「権力に見殺しにされた」と言います。
〈酸素吸入器がないと呼吸できない状態に追い詰められ、横になって眠ることもできなくなりながらも、丸岡は「米国中心の資本主義がパレスチナを抑圧している」という反権力の思想は変えなかったという〉
この柳田さんの発言のあと、私のコメントが載っている。「日刊ゲンダイ」は5月31日(火)付だが、発売は30日(月)の夕方だ。丸岡さんの亡くなった5月29日(日)の夜に取材されている。
〈丸岡と6回面会した「一水会」顧問の鈴木邦男氏はこう言う。
「面会時はいつも車椅子に座りニトログリセリンを持っていました。激しくせき込むこともあり、“大丈夫?”と聞くと、“話をしてるほうが健康にいい”と強気な面を見せたりもしました。丸岡氏はハイジャック犯ではありますが、70年代に彼らがアラブのために戦ったおかげで、アラブ諸国が日本に尊敬の念を抱いてくれていることも事実。米国寄りの日本がテロを受けないのはそのおかげです。丸岡氏を外の病院に移し、70年代の語り部としてメッセージを残して欲しかった。まことに残念です」
またひとつ「70年代」が終わった〉
本当に悔しいし、残念だ。宮城刑務所、そして八王子医療刑務所にも面会に行った。
09年6月1日(月)、宮城刑務所で面会した時のことは特に印象に残っていた。丸岡さんたちがまだアラブで戦っていた頃の話だが。「実は、野村秋介さんと鈴木さんをアラブに招待しようと思ってたんですよ」と言う。
そうだったのか。実現していれば面白かった。この面会の翌週のHPに詳しく書いているので、関心のある人は読んでほしい。竹中労さんが橋渡しをしてくれたようだ。行ってみたかったのに。残念だ。
「元々、僕は右翼少年だったんですよ」と丸岡さんは話してくれた。そのことは、丸岡さんの『公安警察ナンボのもんじゃ』(新泉社・1990年10月発行)にも書かれている。
〈私自身の革命の参加の契機は自身の少年時代の貧しさと、友人、教師、映画などで知った貧富の差や不公平社会の存在に対する疑問からです。しかし中学生時代の私は社会主義のことを全く知らず、5.15や2.26の青年将校にあこがれる自衛官志望のただの(右翼的)政治少年でした。(中略)
中学三年生になって社会主義の理念を少し知るようになっても卒業式には日の丸掲揚、君が代斉唱を主張するような政治的未熟さを持っていました〉
私よりもずっと、右翼少年だったんだ。私なんて、中学の時は、秋田県湯沢市という、人口3万の田舎にいて、政治のことなんか全く知らなかった。日本に天皇がおることも知らなかったし、日の丸、君が代も知らなかった。今思い出したが、小、中学校で、入学式、卒業式…と、「君が代」なんて歌ったことはない。時代が大らかだったからか。
だから、自分が日本人であることも知らなかった。それなのに丸岡さんは、5.15事件や2.26事件に興味を持ち、自衛官になろうとしていた。凄い。
丸岡さんは、そのまま、右翼学生になって、運動をやればよかったのに。そうしたら、一緒にやれたのに。ところが、高校で、新聞を読んでベトナム戦争のニュースを読み、又、近くにいた日共党員の薦めもあって、「赤旗」を読み、民青(日共)の集いによく行くようになり、67年の10.8羽田闘争での山崎さんの死とそれに対する日共の非難i疑問を持つ。
そして、べ平連や新左翼の集会に顔を出すようになる。デモやゲバに参加する高校3年生になっていた。
でも、佐藤首相の訪米阻止(69年11月)といっても結局、阻止できなかった。実際に阻止すべきと考え、赤軍派には色々疑問があるが、赤軍派の言うように「軍事」を考えなければいけない。それを、自身で実行しなければいけないと考えるようになった。
大学に行こうと思ったが、「大学粉砕」を言いながら大学に行くもの矛盾してると考え、2、3年は社会に出て、実際の労働現場の体験を積むべきだと思い、日雇い、鉄工所工員などをやる。そして気がついたら、栄えある赤軍派兵士になっていた。
そして、1972年4月、ベイルートへ旅立つ。さらに、日本赤軍のいろんな軍事作戦に参加。1987年11月、日本に帰国したところを逮捕され、以来24年。拘置所、刑務所で獄中闘争を続けていた。
丸岡さんが罪に問われていたのは、「ドバイ事件」(73年)と、「ダッカ事件」(77年)だ。
ドバイ事件は、73年7月、パレスチナ・ゲリラとともにパリ発東京行きの日航機をハイジャックし、アラブ首長国連邦・ドバイ空港に着陸させた。最後はリビアで乗客乗員を解放し、機体を爆破した。
「ダッカ事件」は77年9月だ。パリ発東京行きの日航機を日本赤軍の仲間4人と乗っ取り、バングラデシュ・ダッカ空港に強制着陸させた。その際、日本政府に「超法規的措置」を取らせて、拘置・服役中の日本赤軍メンバーら6人を釈放させた上、身代金600万ドル(当時約16億円相当)を奪った。
「その後」は。
〈中東などに潜伏していたとみられたが87年に偽造旅券で日本に帰国。警視庁に逮捕された。両事件などで93年に東京地裁で無期懲役判決を受け、2000年に最高裁が上告を棄却、確定した。重い心臓病を患い、刑の執行停止を求める訴訟を起こしていたが、却下されていた〉(「朝日新聞」5月30日付)
初めは、ドバイ事件、ダッカ事件への関与を否定していた。他のメンバーのこともあるし、全体の裁判闘争のかねあいもあったからだろう。しかし、最近になって、関与を認めた「遺言」を発表し、支援関係者に「おわび」していた。
〈関係者によると、丸岡受刑者は今年2月、両事件への関与を認める手書きの手紙を支援者に送っていたという。刑事裁判では関与を否定していたが、手紙では「墓場まで過ちを持ち込むわけにはいかない」などとして、後悔や謝罪の気持ちを示したという〉(「朝日新聞」5月30日付)
「毎日新聞」(5月30日付)によると、〈「無実を信じて応援してくださった人々を欺いてしまい深くおわびする」とつづっている〉。又、こう書かれている。
〈遺書では無罪主張の背景に、弁護団の判断と、日本赤軍指導部の指示があったとし、「無罪か無期懲役なら徹底してやろう」と考えたとした。
しかし刑確定後は「(有罪を認めていれば)人々への公的な謝罪の場があり、(量刑も)有期となる可能性があった」として、後悔の念があったことを明かしている。遺書を書いた理由は、「墓場まで過ちを持ち込むわけにはいかない。死が現実になったところで決心した」としている〉
これは勇気ある決断だったと思う。しかし、日本赤軍の関係者の中には反撥するものもいたという(「週刊新潮」6月9日)。
〈だが、その丸岡受刑者。最後にこう締めくくって遺書を終えている。
「私の独りよがりの論理ではありますが、だからこそ重ねてきた過ちを正したいのです。非難などは覚悟の上で。以上」〉
苦しかったのだろう。日本赤軍全体の戦い、裁判闘争もある。だから、自分だけ過ちを認め、謝罪するわけにもいかなかった。
でも、死を前にして、認める気になったのだろう。逮捕されて24年間も獄中にいる。「罪を認めてない」「反省がない」ということで無期にされ、危篤状態なのに病院にも移してもらえなかった。
検察、法務省が代表する「国家」の復讐なのかもしれない。超法規的措置で服役中の日本赤軍メンバーが奪還された。「国家のメンツ」が潰された。それに対する「復讐」なのだろうか。
しかし、丸岡さんは、70年代の世界を舞台にした戦いの生き証人だ。もっともっと語ってほしかった。死ぬまで刑務所に閉じ込めておくなんて、「国家の損失」だ。何とも残念だし、悔しい。丸岡さんの支援者からのメールにはこう書かれていた。
〈2011年5月29日8時21分、丸岡修君は八王子医療刑務所で死亡した。いや正確には法務省、検察権力により殺された。それも「拡張型心筋症」の末期症状で呼吸困難、激しい胸痛に苦しむのを、これを和らげる何の医療処置を施されることもなく、放置されるという拷問状態のなかで死亡した。
この報に接し、私は1938年特高警察に捉えられ拷問で殺された小林多喜二の死を思い浮かべた。73年前、戦争への道を突き進んだ時代に起こったこの事件は、権力による革命家の虐殺と言う共通点をもっている。
今日6月1日。丸岡修君の葬儀が大阪の妹さんのマンションで行われた。日蓮宗のお坊さんがお経をあげた。丸岡君の死顔は安らかとはいえなかった。たとへ1歩でも刑務所の外に出たかった兄の願いをかなえられなかったと妹さんは泣きくずれた〉
今月中旬には京都で、「丸岡さんを送る会」が執り行われるそうだ。行く予定だ。私も、何とか執行停止されるように努力したつもりだが、出来なかった。申し訳ない。
そして、5月12日、実は、私あてのぶ厚い「遺書」をもらっていた。最後の手紙だ。体が悪いのに、よく書けたと思う。4日もかけて書いたという。
「外に出て、一緒に運動をしたかった」と書いてあった。涙が出た。自分もそう思った。
何とも残念だ。力足りずに、本当に申し訳ないと思った。
5月21日(土)、内海信彦さんの作品展を見に行きました。鼎談「3.11以降の日本と芸術」(原武史さん、神谷秀樹さんと)を聞きました。
左から、原さん、内海さん、鈴木。後ろで生徒たちが、何やら、遊んでますね。