湯沢市に行ってきた。秋田県の湯沢市だ。私の故郷だ。「お前の故郷は仙台だろう」「福島県出身だろう」と言う人もいるだろう。その全てが正解だ。父親が税務署に勤めていたので、福島県、青森県、秋田県、宮城県と転々とした。小学校の後半と中学。一番長く住んだのが湯沢だ。その湯沢中学校の同窓会に行ってきた。10月25日(土)〜26日(日)だ。
会場には、「湯沢市中学校 昭和33年度卒業同期会一行様」と書かれている。昭和33年というと、1958年か。私は1943年(昭和18年)生まれだから、15才の時だ。そうか、中学3年というのは15才か。それから50年の歳月が経った。「半世紀ぶりの同窓会」だ。
半世紀というと、「懐かしい」とか、「久しぶり」という気持ちじゃないね。そのずーっと前、「前世の記憶」のようだ。同窓会で会って、別れる時は、「じゃ、来世で」。となるのか、と思った。でも、そんな暗い雰囲気じゃない。
それに、本当は「50年ぶり」に会うのでない。5年前に、「還暦の同窓会」があった。だから、5年ぶりだ。案内状にはこう書かれていた。
〈平成15年(6月)に還暦祝いの同期会を行ってから5年の歳月が過ぎました。この間、同級会を企画して集まって居るクラスは有りますが、全体の集まりは持てませんでした。
そこで、「古希の祝い」までは些か長すぎるので、中間の今、全体の集まりを左記の要領で持つことに致しました。時期は紅葉の見事な秋を選びました。どうぞご参加頂いて旧交を温めて頂きたいと思います〉
25日(土)の午後2時に、「湯沢市生涯学習センター」に集合し、バスで「秋田いこいの村」に行くのだという。両方とも名前がちょっと暗い。「生涯学習センター」は前は中央公民館だった。それでいいじゃないか。ここは、その前は湯沢東小学校と西小学校があった。私は東小学校を出た。それが今じゃ、お年寄りのための「生涯学習センター」かよ。それに湯沢中学校もない。町村合併で、二校に分かれて、ちょっと離れた所に行った。中学校は、どっちかが使えばいいのに、取り壊した。そして今は立派な看護養老院になっている。うーん、ちょっと複雑な気持ちだ。 「湯沢中学卒業生で、そこに入っている人はいるの?」と同級生に聞いた。「まだ、いねど思うども。これがらだべ」と言う。「んでも、職員で働いでる人はいるべども」と言う。そうか、僕らは昭和33年卒だ。しかし、それ以前の卒業生なら、ここに入ってる人もいるだろう。「湯沢中を出て、湯沢中(の跡地)に戻る」。いいことなのか。
この案内状をもらって、私はすぐに出席の返事を書いた。昔の友人たちに会いたい気は(少しは)あるが、それよりも、自分のことを知りたい。自分はどんな生徒だったのだろう。何を喋り、何を行動したのだろう。級友たちに聞いてみたい。自分じゃ、よく覚えてない。「前世の記憶」がない。だから、同級生たちに聞きに行くのだ。これも、「自分探しの旅」だよね。
翌10月26日(日)は昼から早大でトークライブがある。でも、早朝に出れば間に合うだろう。と気軽に考えていた。それで出かけたわさ。
10月25日(土)、東京発7時36分の秋田新幹線「はやて3号」に乗る。11時01分に大曲着。そこから奥羽本線に乗り換える。11時18分大曲発で湯沢に12時01分に着く。集合は2時だが、その前に湯沢の町を歩いてみようと思ったのだ。でも、大曲や湯沢駅で、もう何人かの同窓生に会う。「おう、クニオでねえが」「んだ」という会話になる。シティボーイの私が途端に東北弁になる。
湯沢駅は相変わらず閑散としている。50年前から全く変わらない。記念に写真を撮った。駅前の商店街はさびれる一方だ。シャッター街だ。だから記念にカメラのシャッターを押した。まるで、ゴーストタウンだ。人は住んでるんだろうか…と思う。人口も減り、昔は4つの映画館があった文化都市だったのに、今は一軒もない。買い物は郊外の大型店に行くのだろう。そこだと一店で全部そろう。駅の商店街で買い物する人はいない。だからさびれる。大型店の進出を許可した時点で、市内の商店街の衰退は決まったのかもしれない。
「生涯学習センター」に行って、受付けを済ます。1万8千円の会費を払い、ネームプレートをもらう。「クニオ、オメは8組にしたがら」と言われた。実は、私は2年までしかいなかった。中学3年で仙台に転校したからだ。だから本当は出席資格がないのに、呼んでくれた。それで、幹事の奈良氏が、「オラのクラスに入れでやっから」となったのだ。
「時間があるがら、散歩ばしてくるがら」と行って出かけた。生涯学習センターは、元は小学校だ。横の方に「力水」(ちからみず)がある。滾々と湧いている。すくって飲んだ。小学生の頃に戻った。あっ、この上に「学校山」があったんだ。と思ったら、あった。登ってみた。昔と同じだ。ここに相撲の土俵があった。又、ブランコがあった。それに、「遊動円木」というものがあった。大きな丸太が横に吊るされているだけのものだ。その上に皆で乗って、ゆすって、突き落としていた。考えたら危ない遊具だ。大怪我をした人もいたんじゃないのか。今も、どっかにあるんだろうか。
山から下りて、「湯の原」に向かう。昔、私が住んでいた所だ。昔は子供の足だから、遠いと思っていたのに、案外と近い。守尾医院がある。糯田君の家がある。「かど屋」がある。道の角にあるから、「かど屋」だ。雑貨屋で、よくアメやキャラメルを買ったりした。少し行くと、「湯の原温泉」だ。昔は銭湯だったのに今は、宿泊設備のある温泉だ。ここだけは繁盛している。道の真ん中に、「槻(つき)の木さん」がある。神様の木だと思っていた。意味も分かんなく、「つきのきさん」と呼んでいたが、「槻の木(けやき)」なんだ。旧街道の「一里塚」とも書かれていた。
そこを右に入ると昔の家だ。でも、あれっ、ないよ。5年前に来た時はまだあったのに。「湯の原会館」という小ぎれいな建物になっていた。町内会で使っているのだ。
実は、この辺一帯は、秋田発酵会社の社宅だった。私の父親は長く税務署にいた。福島県の郡山、会津若松、青森県、そして秋田県の横手。秋田で税務署長をやった。そこで税務署をやめて、湯沢の発酵会社に入った。税務対策の常務だった。発酵会社は酒造会社で、「新光」などを作っている。今は、焼酎に力を入れ、「時空の扉」「米蔵」「ブラック・ストーン」などは有名だ。他にも湯沢には、「爛漫」「両関」といった有名な酒造会社がある。
そうそう、湯沢駅には、「美人の里、美酒の里、湯沢へようこそ」と書かれていた。酒だけでなく、「美人の産地」としても有名なのだ。だから、同級生にも、元・秋田美人が多い(ような気がする)。かつて、週刊誌のグラビアに「秋田美人の産地」と大々的に紹介された。同級生もいたから、本当だ。それに、湯沢市の市長さんは鈴木さんといって、共産党員だ。全国に4つしかないそうだ。共産党の市長さんは。これは名誉なことだ。湯沢は、「共産党の市長に、美人の里」。まるで北朝鮮のようだね。東北のユートピアだ。じゃ、ここでも「悦び組」を作って、「美人」を大々的に「観光名物」として売り出せばいいのに。「美人喫茶」とか、「美人書店」とか、「美人バー」とか銘打って…。
では、湯の原の我が家の話だ。私の家がここに引っ越して来たのは私が10才(小学4年)の時だ。昭和28年(1953年)だ。今から55年前だ。この辺は、もっと道が狭かった。この小川で泳いだよな、と思い出した。そうだ。5年前に訪ねてきた時は、まだ「我が家」があった。その時、撮った写真を載せよう。発酵会社が、昭和28年に建てた社宅だ。そこに私達はいた。左側の部屋が私の勉強部屋だった。右側は長い長い廊下で、拭き掃除が大変だった。でも冬は、廊下でスキーをはいて、そこからポンと外に出て、その辺の畑でスキーをやった。雪が積もって、廊下と同じ高さになってるから、すぐに飛び出せたのだ。
「湯の原会館」に変わった「我が家」をしげしげと見てたら、向かいの高橋武雄さんが出て来た。「あっ、クニオさん」と覚えていた。私の二級下だ。ここにクリーニング店があった。「洗濯屋タケちゃん」と呼ばれていた。2人で家の前で写真を撮った。武雄さんは私の弟と同級だ。「3年前に還暦の同窓会があっただげど、宏三さんは来ねがったげな」と言う。いかんな。じゃ、写真を送っとくよ、と言った。弟はこのHPを見てるから、分かるだろう。たまには故郷の湯沢にも行ってみろや。
「クニオさん、最近、北朝鮮さ行ったげな?」と言う。「んだびょん」と答える。使いなれてないから私の秋田弁は変だ。「なんじょして分がっただしゃ?」と聞く。「次田(しだ)さんが週刊朝日ば見せでけだのしゃ」。あっ、んだが。4月に訪朝した時の記事だ。次田さんは市役所に長年勤めていて、今は辞め、悠々自適の生活だ。次田さんは「生長の家」もやっていて、私も随分とお世話になった。
「次田さん、いるべが?」「んだば、行ってみるべ」と高橋さんは案内してくれる。いた。「なづがしいごと。週刊誌どがテレビで時々見でだども」と言う。「もんじゃねぐしでるども、あがってたんしぇ」。「もんじゃね」というのは、「散らかっている」という意味だ。「んだば、イスっこさ、ねまってけれ」。で、ねまった(=座った)。昔の話に華が咲いた。「クニオさんのお兄さんは元気ですか。たしか、わだしと同じ年だど思ったけんど」。次田さんは74才だ。じゃ同じ年だろう。「アメリカやヨーロッパに1人で行って車を運転して飛び回ってますよ。元気ですよ。オラより元気いいですよ」と言った。「よぐ、会うなだが?」「仙台に時々、行ぐがら会ってるぞな」。「じゃ、兄貴に次田さんの写真を送りますよ」と記念撮影。兄貴もこのHPを見てるから、ちゃんと写真を見たでしょう。
そうこうしてるうちに、集合時間が近づく。「んだば、送っていぐがら」。車で送ってくれた。途中、又、「元我が家」前を通る。区画整理で道幅は広くなり、車は通りやすい。でも、こんな所まで車は入らなくていいよ。道幅を広げるために、そばの家は、削られて、建て直したという。改築費は市が出した。きれいになったのはいいが、ちょっと淋しい。私の家は文化財として残してくれたらよかったのに。「日本一の愛国者・生誕の家」とかいって。無理か。「これ、発酵会社でつぐってる焼酎です。売れてるんですよ」と次田さんにもらう。有名な「時空の扉」だ。名前が哲学的だ。じゃ、東京に持って帰って飲もう。
午後2時ちょうどに集合場所に着いた。おっ、いるわ、いるわ、壮年、老年の男女が。今回は120人だそうな。昭和33年度の卒業生は430人だそうだ。1クラス50人位で9クラスあった。
5年前の還暦同窓会の時までに32人が亡くなった。それから5年間に14人が亡くなった。計、46人だ。「死亡率1割」だそうな。幹事が報告していた。「生存率9割と言ってほしいな!」と他の人が言ってた。
バス6台ほどで分乗し、出発する。「秋田いこいの村」に向かう。山また山だ。日本は何て緑が多い国かと思う。いいことだ。紅葉がきれいだ。人はいない。自然だけだ。感動だ。大地震でガケ崩れがあった道を通る。「最近やっと復旧しました」という。ガス爆発があって、人が死んだ場所もあった。泥湯だったかな。田舎も結構スリリングだ。
市内からバスで1時間位かかる。はるか遠くに来た、と思ったら、「三途の川」渓谷があった。川原毛地獄もある。ゲッ!なんだこれは。でも、やけにきれいだ。「地獄めぐり」なんだろうか。やはり「来世」だな、ここは。
1時間後、「秋田いこいの村」にやっと着いた。まずは、120人で集合写真を撮る。それから部屋に分かれ、風呂に入る。5時半から宴会だ。120人だから、壮観だ。まず、はじめに校歌を歌う。「むらさき匂う、鳥海の…」と歌う。「我らは競う春と秋。若駒、湯沢中学校」…と。うーん、オラたちは若駒か。競馬馬みたいだな。それから、黙祷。右翼の集会みたいだな、と思ったが、亡くなった46人への黙祷だ。それから宴会だ。料理がいい。キノコが沢山ある。それに、同級生が家から持ってきた「ナス漬け」がうまい。小さくて丸いナス。大きいナス。長ナス。いろんな種類がある。キノコとナスがあれば十分だ。贅沢だ。ガツガツと食べていた。
「おっ、クニオ、久しぶり」。「あっ、勝太郎でねが。おめえん家から自転車、買ったんだよな」と、つい昨日のように思い出す。自転車屋の勝ちゃんだ。「まだ自転車屋やってんの?」。「今は大きな会社の社長さんよ」と隣りの人が教えてくれた。
その近くには、勝子さんもいる。戦争中に生まれたから、戦争に勝つようにという必死の願いをこめて、「勝男」「勝子」「勝太郎」と付けたんだ。時代が分かる名前だ。私の「邦男」もそうだけど。精子、房子、光子とも久しぶりだ。精子(せいこ)って、「精子(せいし)」とも読む。それに乳房の房か。今、考えると、エロっぽい名前だ。でも、中学生の時は、マジメだったから、そんなことは全く思いつかなかった。分かってたらヒヤかしたのに。損した。
そうそう、この「いこいの村」は天皇・皇后両陛下が来られたことがある。1978年(昭和53年)だ。皇太子様の時だ。又、名物「まなぐ凧」の写真も貼ってあった。まなぐ(眼)だけを大きく描いた凧だ。「まなぐ」は「まなこ」から来た。なまったら、「まなご」だ。でも、「んご」という言葉は発音しづらい。それで撥音便になって「まなぐ」になった(らしい)。
しかし、今回は先生はいねーのが。「呼んでないの?」それとも「死に絶えたの?」と聞いたら、生きてるけど呼んでないそうだ。千葉先生、高久先生、田口先生…と、懐かしいな。千葉先生にはよく殴られたな。「んだ。ちちゃこい先生だども、伸び上がって殴ってだっけ。おれもよぐ、殴られだっけ。「ほんじねえガキだ」と言われて、よく、ごしゃがれでいだ。ほんでじね(やる気がねえ)、ごしゃぐ(叱る)だ。
ワイワイ、ガヤガヤと騒ぎ、飲み、夜は更けたのでありました。8時20分にお開き。それから、カラオケ会場で二次会。
そうだ、明日の朝は早いんだ。タクシーを頼まなくちゃ。湯沢発だと、一番でも昼までに早大に着かない。それに打ち合わせもあるから、11時半に早大に着きたい。そうすると、横手までタクシーで行って、横手発6時10分に乗るか。そうしたら、大曲に6時34分に着く。大曲発6時36分発秋田新幹線・こまち2号に乗れば、10時頃、東京駅に着く。これしかないな。
湯沢から横手までは30キロ。東京〜大宮間の距離だ。タクシーで5、6千円だろう。でも、湯沢から随分と遠くに来た。フロントで聞いてみた。「明日、タクシーを呼んでもらいたいんですけど」。横手までと聞いてビックリしてた。「1万5千円位かかりますよ」。ゲッ。「それよりは、今晩、湯沢に帰る人が5人ほどいます。9時にホテルのバスで湯沢まで行きます。それに乗ったらいいんじゃないですか」。
そうか。それしかないな。それで、慌てて支度をして、9時のバスに乗る。湯沢から横手に行って、ホテルを探せばいい。
夜の道は真っ暗だ。バスも、ゆっくり、ゆっくり走る。湯沢駅に着いたら10時25分だった。10時20分の秋田行きは出たあと。だったら、次は11時20分の秋田行きが最終だ。夜は湯沢駅は無人駅になる。誰もいない駅で、一人で本を読んでいた。時刻表を見ているうちに気がついた。この列車は、大曲も通る。じゃ、横手じゃなく、大曲で下りたらいい。そしたら、そこから秋田新幹線に乗れる。大発見だ(でもないか)。気分は西村京太郎だ。
夜、10時20分発の列車に乗り、大曲に11時20分に着く。駅前にルートインというホテルかあったので行ったら、泊まれた。ホッ。
そして、翌26日(日)、新幹線に乗って東京へ。そして早大へ。7号館(商学部)の206教室で討論会だ。憲法について、12時から2時までやる。正清太一氏と私の対談だ。でも、会場に集まった人たち全体を巻き込んだ討論会になった。盛り上がった。よく寝てないから、私はボーッとしている。でも、頑張って話をした。
外に出たら、ヤケに人が多い。それも壮年、老年ばかりだ。「稲門祭」期間中だという。「早稲田祭」は11月だが、その前に、OBのための「稲門祭」をやっているのだ。今日も〈同窓会〉なのか。2日続けて同窓会だよ。せっかく早大に来たのだから、早大の初代総長、大隈重信さんの銅像の下で写真撮影した。出店も出ている。立て看板も出ている。と見ると、大隈重信さんが歩いている。驚いた。「お面を被ってるんだよ」と言う人もいるが違う。本人だよ。お願いして記念撮影をした。その後、打ち上げで、近所の中華屋で食事。正清さんに奢ってもらった。前夜、寝てないし、食べながら寝てしまったらしい。申し訳ない。それで、早々に家に帰った。すぐ寝ようと思ったが、仕事が溜まっていたので、又もや夜遅くなる。