そんな馬鹿な! それだけは絶対ありえない!と思っていた。三浦和義さんの「自殺」だ。「ロス警察に殺されたのだ」「謀殺だ」という声もある。「事故死だ」と言う人もいる。分からない。自殺と発表されたが、遺言もない。「裁判の行方を悲観して衝撃的に自殺したのだ」「アメリカのやり方、共謀罪に対する抗議だ」と言う人もいる。
しかし、大事なことはこうだ。日本で無罪になった人間を、アメリカが逮捕し、本国に移送し、裁判にかけようとした。アメリカは日本の裁判を無視している。日本という国家も無視している。これも〈拉致〉事件だ。それに対し、日本政府は抗議もしない。北朝鮮の拉致に対しては、「強固とした態度で」「戦争も辞さずに…」と言う人も、今回の事件については口を閉ざす。ロス事件の「再来」としてマスコミは書き立てるだけだ。又、〈拉致〉したロス市警は、ズサンな管理で、三浦氏を死なせた。ロス市警の責任だ。その意味では「ロス市警に殺された」という声も正しい。
つまり、アメリカが無罪の日本人を拉致し、殺したのだ。アメリカの犯罪だ。その点は声を大にして言いたい。
いや、アメリカや日本政府、マスコミの責任だけでない。私自身の責任でもある、と思った。私の愚かさの為に、又もや、有能な人間を殺してしまった。一代の風雲児を死なせてしまった。申し訳ない。「又もや」と言ったのは、我が同志・見沢知廉氏もムザムザ死なせてしまったからだ。そして今回は三浦氏だ。2人とも精神力の強い人だった。私のように、フラフラとした、精神力の弱い人間から見たら、とても信じられないほど強い人だった。だから、2人とも自殺だけは絶対にないと思っていた。一瞬たりとも考えたことがなかった。私の考えが甘かったのだ。
ところが見沢氏は自殺した。その教訓があったはずなのに、同じように三浦氏もムザムザと死なせてしまった。何としても、サイパンにいる時に面会に行けばよかった。会って、励ますべきだった。もっともっと支援活動をすべきだった。勿論、私がサイパンに行ったところで事態は変わらなかったのかもしれない。しかし、何も出来なかった自分自身が悔しい。残念だ。申し訳ない。
数カ月前、横浜中華街で、「三浦和義さんを支援する集会」が開かれた。その時は、弁護士、左翼、労働組合、右翼と、実に多くの、多種多様の人々が集まった。三浦さんは、人権、冤罪事件に関わり、その支援行動をともにしていたから、市民運動グループや左翼の人との付き合いが多い。しかし、同時に、右翼・民族派の人々との付き合いも深く、広い。サイパンだって、右翼の人々と行っていた。戦争で亡くなった人々の慰霊のために行っていたのだ。
その中華街の支援集会の時、「サイパンに面会に行ってきた」という人の話を聞いた。エッ、面会が出来るのか、と驚いた。右翼の人々も行ったし、JR東労組の人も行ったという。「じゃ、僕も行きたい」と言った。だから、すぐ行けばよかったのだ。申し訳ない。自分自身の〈甘さ〉を痛感する。自分で自分を許せないと思った。
でも、正直な話、安心していたのだ。サイパンに行ったって、むしろ逆に私の方が励まされるだろう。そういう人だ。三浦さんは。それでも行くべきだった。
私は三浦さんとの付き合いは古い。20年以上前からだ。「ロス事件」で逮捕され、東京拘置所にいる時だった。昭和62年(1987年)からだから、21年前だ。三浦さんが東京拘置所にいた時だ。植垣康博さん(連合赤軍)の紹介で、「レコンキスタ」を送り、それから手紙をもらい、木村氏と2人で面会に行った。
21年前から付き合いがある。ずっと見てきた。そして思った。この人ほど精神力の強い人はいない、と。取り調べの話は何度も何度も聞いた。拘留されている時の話も何度も聞いた。たった1人で、よく闘えたものだと思う。そして、中では死に物狂いで勉強し、裁判闘争を勝ち抜いた。自分のことを興味半分で書いたマスコミを相手どって訴訟を起こし、ことごとく勝訴している。一体、何なんだ、この人はと思った。
普通、何年も、何十年も拘留されたら、やってないことでも、「やった」と言ってしまう。冤罪事件はそうして起こる。この先、何十年も拘留されるのなら、いっそやっていなくてもやったと言って、刑を決めてもらいたい。そんな心境になる。追いつめられた心境になる。
警察だって言う。「いいんだよ、無罪を主張するんなら。一生、死ぬまでここにいて、無罪を主張したらいいだろう」と。本人は焦る。何年たっても出られない。裁判で無罪になる確率はない。こんな不安定な状況で、死ぬまでここにいるのか。そんな時、〈悪魔〉が囁く。メフィストフェレスが囁く。「やってなくてもやったと言った方が楽だよ」と。それで死刑になるかもしれない。でも、拘留の不安定な状況から逃れたくて、「自供」する。嘘の自供をする。
死刑になるかもしれない。それでも追いつめられて、嘘の「自供」をする。これが、もし、「自供しても15年か20年だ」と言われたらどうだ。簡単に嘘の「自供」をするだろう。人間なんてそんなに強くない。悪魔の囁きに負ける。「無罪を主張して一生、拘留される」よりは、「罪人になって、出所する日を一日一日、数える」方をとる。あっもう10年か。あっもう5年か、と指折り数えて、出所の日を心待ちにする。不合理だし、残酷だ。しかし、拘留されているとそんな心境になる。
私だって、昔、1ヶ月、ぶちこまれた時も、そんな悪魔の声を聞いた。こんな所でずっと入っているのなら、嘘でも「やった」と言おうか、と思った。そうすると、やってもいない「犯行現場」の様子がアリアリと目の前に浮かんでくる。ゲッ幻想だ。妄想だと思う。1ヶ月でもそう思った。だったら何年も、何十年もいたら確実にそうなる。
この時は、「ガサ令状」を破ったという容疑で逮捕されたのだ。やってないのに、1ヶ月も入ってると、「もしかして、自分はやったのかな?」と疑い出す。そして、「ガサ令状」をビリビリと破っている自分の姿が見えてきた。
もしこれが、殺人事件の容疑で捕まり、何年も拘留されたら、確実に「自供」していたな、と思った。犯行の様子は毎日毎日、取り調べ官から聞かされる。そのうち、それが「自分の記憶」になり、「体験」だと思う。「はい、私が朝日の記者を殺しました。あの狭い階段を上っていきました。真ん中で、ギシギシと音がしました。中に入ったら、記者の人が夕食を食べてました。そこで声も出さず、腰だめで撃ちました。」…と。「外国で射撃の訓練をしてましたし、腕に自信はありました。銃は、重しをつけて、東京湾に沈めました」と。「これは犯人しか知らない事だ」と、すぐに真犯人にしてくれる。毎日、取り調べ官に聞かされていた事を喋っただけなのに。
「一生、拘置所にいて無罪を訴えるのもいい。しかし、大事な一生を無駄にするだけだ。それよりは認めて、15年で出てきたらいいだろう。国賊を殺した英雄として右翼からは絶讃されるよ」と警察に言われたら、「ハイ、分かりました」とすぐに「自供」しちゃうね。私なら。
ところが、三浦さんは強い。不屈の人だ。それに、考えてほしい。三浦さんは対警察の厳しいトレーニングをしたわけではない。反権力の思想や宗教を持っているわけでもない。普通の国民だ。それなのに、耐えた。右翼や左翼、宗教家だって、「お前がやったのに違いない」と言われたら、「はい、そうです」と言っちゃう。共産党だって、それで大量の転向者を出した。
ところが、三浦さんは、思想的な運動をしたことはない。宗教体験もない。それなのに、よく耐えられたものだ。
その〈秘密〉はどこにあるのだろう。そう思って、三浦さんに会うたびに聞いていた。「だって、やってないからですよ。愛する妻を殺すはずがないでしょう。それを言ってるだけですよ」と言う。逆に「やってないことをやったと言う人の気持ちが分からない」と言う。
三浦さんに、以前、取り調べの話を聞いた。ある日、取り調べ室に入ったら、電気を消して真っ暗だった。そこに4、5本、ローソクをつけて、床に置く。取り調べ官は言う。「今日はお前が殺した女性の命日だ。ほら、霊が来てるだろう。早く自供してくれって訴えているよ」と。霊の力を借りて、落とそうとしたのだ。又、殺された被害者の写真を毎日毎日、見せる。「こんな残酷なことをして、無関係を装っている。こりゃ人間じゃないな」と責め立てる。いきなりイスを蹴飛ばして、床に転倒させる。荒っぽいやり方もする。
それが何年も、何年も続く。「こんなことが一生続くのなら、何でもいいから自供します」となる。普通ならそうなる。ところが三浦さんは耐え抜いた。何と精神の強い人だろうと思った。
ロフトでも何回かトークした。そのたびに、〈強さ〉の秘密に迫ろうとした。又、今年の春、代官山でトークをした。それまでも何十人とやったようだ。今年の末に、それが本になるようだ。その時も、〈精神力の強さ〉について聞いた。執拗に聞いた。
今まで私は、右翼や左翼、そして宗教家と、多くの人々に会い、その生き様を見てきた。強い人もいた。しかし、三浦さんほど強い人を見たことはない。だからこそ、一瞬たりとも「自殺」なんて考えていなかった。
サイパンで捕まっても、余裕を持ってると思っていた。ロスに移送されても、ロス市警は「攻め手」がない。目障りな三浦さんにただ、「嫌がらせ」をしてるだけだ。結局、釈放するしかない。だから三浦さんだって、この事態に余裕を持って対処してるのではないか。
そう思っていた。だから横浜中華街の「激励会」でも「すぐに帰ってきます。その時に又、ここで歓迎会をやりましょう」と私は能天気なことを言ってしまった。申し訳ない。
今回の事件については、新聞、週刊誌、テレビなどをかなり見た。三浦さんを知る人は、「絶対に自殺をするような人ではない」と言っている。この点は皆、一致していた。高須基仁さんも、「そりゃあ、自殺するようなタマじゃあなかったからね」と言っている。ただ、ロスに移送される時に、三浦さんが被っていた帽子の文字が取り上げられていた。それは、スラングで意味は「さようなら」だという。それが「遺書」がわりだったと言う人もいる。しかし、日本から被っていたというし、偶然の一致だ。そんなことはある。
又、ロス市警は、「共謀罪」で立件しようとしていた。これではたとえ証拠がなくても、誰かの「証言」だけで長期間ぶち込まれるかもしれない。「殺しの相談を持ちかけられた」という人間が出たとして、たとえ嘘でも、共謀罪にひっかかるかもしれない。それで20年もぶち込まれたら、大変だ。そんなこともあって、暗い気持ちになり、フッと死を考えたのかもしれない。
三浦さんは精神力の強い人だから、〈死〉を考えたことはないと思っていた。超人だと思っていた。もっと、そのことを聞いておけばよかった。あるいは、その点は、「普通の人間」で、落ち込んだ時には死を考えたこともあったのかもしれない。しかし、日本の拘置所や刑務所は24時間、監視している。だから、絶対に自殺など出来ない。(中には、ごくごく例外的にする人もいて、管理のズサンさを指摘される)。
ところが、ロス市警は、その点は甘い。ズサンだ。年間、何十人も自殺者がいる。「わざとそうしているんだ」と言う人もいる。「裁判をする手間が省けると思っているのだ」と。まさか、そんなことはないと思うが、ともかく日本とは違う。そして、三浦さんは衝動的に自殺したのかもしれない。でも、結果的には、(何度も言うように)ロス市警が殺したのだ。
10月16日(木)のことだ。産経新聞を読んでたら、「週刊文春」と「週刊新潮」の広告が出ていた。「週刊新潮」(10月23日号)を見て驚いた。
〈特集。アメリカの敵「三浦和義」はロス市警に殺された!〉
これはぜひ読まなくちゃと思って、買った。皆、自殺するような人ではないと言う。
そこでは、いろんな人が喋っている。ある新聞記者は、「狂言自殺失敗説」を言っていた。テレビでも言ってる人もいた。抗議のために「自殺未遂」をやろうとした。そこまで追い込まれ、怒っていた。ということを表わそうとした。大体、Tシャツで首なんか吊れるはずはないと思っていたのに、やってみたら本当に死んでしまった…と、そう言うのだ。「三浦の性格から考えて、これが真相だ」と言う人もいる。ウーン、どうかなと思った。
長い間、付き合っていて分かるが、三浦さんは驚くほど頭のいい人だ。獄中で独学で法律を勉強し、マスコミを訴え、ことごとく勝利している。厖大な本を読んでいる。いろんな冤罪事件では、裁判のための闘い方を、こと細かく作戦を教えてやっている。
そんな頭のいい人が、「未遂」でパフォーマンスなんかするわけがない。じゃ、独房の中で殺されたのか。「そうだ」と言う人もいる。あるいは、思いもかけない〈真相〉が発表されるのかもしれない。
そうだ。この「週刊新潮」の三浦さんの記事を読み、その他は何があるんだろうと、パラパラとめくっていた。そしたらグラビアに、「よど号」の人々の写真が出ていた。エッ?どうして、と思った。第一行目を読んで驚いた。
〈右翼団体「一水会」顧問、鈴木邦男氏が、写真の面々と交流があることを知る人は少ないだろう。何しろ彼らは思想的に左向き。現在住まうのは北朝鮮なのだから。そう、「よど号ハイジャック犯」である〉
〈このとき、鈴木氏は彼らに面会するはずだったが、中国から北朝鮮に入国する際、ビザが下りず、よど号犯の支援者にカメラとビデオを託したのだという〉
そうか、そうか。私が渡した写真だった。すっかり忘れていた。「三浦ショック」が余りに強烈だったので、それ以外のことは全て忘れていた。中国に行ったことも、北朝鮮に入れなかったことも、もう遠い昔のような気がして、忘れてしまったのだ。
記憶を甦らせよう。10月3日〜7日に、山中幸男さん(救援連絡センター事務局長)と2人で中国に行った。そこから北朝鮮に入れるはずになっていた。だが、突然のキャンセル。北京で茫然とした。行く前に、大阪の朝日放送の「ムーブ!」、さらに「週刊新潮」から写真を頼まれていた。「よど号」グループの元気な姿を紹介し、彼らの主張を伝える。いいことだろうと思い了承した。山中さんにも相談した。「いいよ」と言ってくれた。
ところが、北京まで行って、入国拒否だ。どうしよう。「よど号」の人達は、しきりに「申し訳ありません」と言う。しかし、彼らのせいではない。ギリギリまで、何とか行けないかと、あがいたがダメだった。
山中さんだけはビザが下りた。それで山中さんにカメラとビデオを託した。カメラは「使い捨て」のカメラを6ヶ、鉛の袋に入れて渡した。ビデオは直前にヨド号カメラ(ヨドバシカメラだったかな?)で3万円で買った。よく使い方が分からない。山中さんは私に輪をかけて機械オンチだ。必死に説明したが、よく分からない。説明書を渡した。「まあ、向こうの人は分かるだろう」と山中さん。
それで、「ムーブ!」と「週刊新潮」には、北京から電話した。「私は行けない。でも山中さんに頼んだ。だから余り期待しないでくれ」と。それで企画がボツになるんなら、それでもいいですよと。
ところが、ハッピーにも撮れていた。特にビデオは素晴らしい。アリラン祭の暗い会場でもバッチリだ。ボートに乗っている「よど号」の人達の姿。食事している姿、話し合ってる姿もバッチリだ。ありがたい。
使い捨てカメラの方は二本だけ撮ってくれてた。全部使ったらいいのに。それに、使ったカメラはポケットに入れてきた。X線防禦用の鉛袋を買って入れたのに、それから外して、ポケットに入れてきたのだ。「まざると困ると思って」。こりゃダメだな、と思った。ところが、写っていた。特に、4人全員が写ってるシーンが2枚ある。これは貴重だ。「歴史的写真」だ。
日本に帰ってきたのが10月7日(火)だ。その夜、高木尋士氏に見てもらい、ビデオを「再生」した。私と山中さんの「技術」では、再生出来ないのだ。下手にボタンを押して消してしまっては困ると思い、高木氏に頼んだ。「おっ、よく写ってますよ」と驚いていた。そして、パソコンに焼いてくれた。
翌、10月8日(水)は、カメラを出したり、たまってた用事をしたりして忙しかった。
10月9日(木)朝10時に、サンルートホテルで大阪朝日放送「ムーブ!」の人と打ち合わせ。一番の新幹線で来たのだ。高木氏、山中氏も来てくれ、パソコンを渡し、映像の説明をする。「この人が小西さん」「ここは市内のレストラン」…と。私の出る幕はない。「その間、鈴木さんはどうしてたの?」「万里の長城みたり、パンダと遊んだりしてました」「じゃ、その写真も下さい」。
それから、この日の12時に、「週刊新潮」のグラビア班の人と会う。メンバー全員の写真には感動していた。それと、ビデオからとってパソコンも渡す。ここには、「ボートで遊ぶよど号」が写っている。
そして、翌10月10日(金)大阪に行く。夕方4時から6時に「ムーブ!」に出る。「鈴木邦男の北朝鮮レポート」だ。「よど号」グループの最新の映像だ。又、街の様子も映し出される。「その間、北京で待ちぼうけの鈴木氏は万里の長城で遊んでました」と写真も出る。間抜けな顔だ。でも番組はなかなかよかった。
さらに次の日、「三浦さんの自殺」の報が入る。完全なパニックになる。又、10月14日(火)、渡辺文樹監督の映画「天皇伝説」を横浜に見に行き、右翼の人に取り囲まれ、糾弾された。「こんな反日映画を見に来るなんてお前も反日だ。不敬だ!」と怒鳴られた。一水会の皆さまにも迷惑をかけてしまった。翌、10月15日(水)には、一水会フォーラムで150人も集まり、廊下にまで人があふれていた。堀辺正史先生の話をぜひ聞きたいと、全国から集まってきたのだ。
ともかく、忙しかった。スリリングな日々が続いていた。それで、北朝鮮のことは、すっかり忘れていた。それに、10月8日(水)に「週刊新潮」に写真を渡したのだ。早くて翌々週か。その次か、と思っていた。ところが、翌週には出たのだ。ただ、「週刊新潮」らしく辛口の見出しだ。「懲りない面々」。ウーン、仕方ないか。でも、私のコメントはちゃんと紹介してくれてる。「よど号」の人達はヨーロッパの拉致はやってないと言っている。又、私は、「日本に帰ったら15年か20年はくらう。それよりは北朝鮮にいた方がいい」と言ってる。そうした主張は紹介してくれてた。後半、八尾恵さんの証言も紹介されてるが、それは週刊誌のバランス感覚だろう。
しかし、「使い捨てカメラ」で撮った写真が週刊誌のグラビアを飾るなんて前代未聞の事だろう。